コロナ禍の2020年4-6月期のGDP値で思ったこと

 2020年4-6月期GDPの第二次速報値によれば、前期比で約8%、年率換算で約28%減という結果だった。以前に『新型コロナ肺炎に見る感染症問題の理不尽さ - supplysideliberaljp’s blog』を書いた時には、この一年で一体どのくらいのGDPが失われるのか?2割くらいだろうか?などと心配したものだった。4-6月中全てが緊急事態で人々が強く自粛したわけではなく、年率換算はかなり大袈裟な数字だろう。従って、この結果から年間のGDPの減少はやはり1~2割くらいがせいぜいなのではないだろうか?経済か感染拡大かという二択の考えは単純過ぎるが、経済重視の立場の人が「経済を全部止めてまで自粛していいのか」などと感情的に言うのを聞くと、一体自分が何を言っているのか分かっているのかと疑問に思ったものだ。GDPの数字を見ても経済のかなりの部分は動いている(そりゃそうでしょう?)。ただし、気になるのは2019年の日本経済はあまり良くなかったので、そこから比べるとダメージは小さめに出ているかもしれないが。

 第二次速報値は一次から多少の下方修正があったが、一次と二次との違いが大きくなるのは、企業の設備投資に対して、第二次速報値では法人企業統計の結果が推計に加えられることが大きいようだ。ちなみに前回の1-3月期では、コロナの影響などで法人企業統計の集計が遅れ、その第二次速報値は8月に再修正が発表された。それに先んじて発表されていた法人企業統計の設備投資は大幅減少であったが、GDP統計の第二次速報値の再修正で設備投資は逆に上方修正された。不思議に思って調べると、設備投資の季節調整前(原系列)は前期比マイナスである一方、季節調整後はプラスに転じていた。(2020年末現在で1-3月期の設備投資の前期比は現系列で―2%、季節調整で―3.7%となっているが、4-6期と7-9期の速報値は現系列の方が季節調整値よりマイナス幅が大きい。季節調整はデータが更新されると調整値が再推計される。)このコロナ禍の設備投資の減少の大部分が季節要因によるものだとすれば信じ難い。この4-6月期では第一次速報に対するGDPの下方修正は設備投資の下方修正によるところが大きい。設備投資は季節調整前も後も、共に前期比マイナスであったが、調整前(原系列)のマイナス幅より調整後のマイナス幅の方が小さかった。季節要因が全ての季節でプラスなはずはないだろうから、後半は設備投資にネガティブな季節要因を持つことになるのか?(つまり、現系列で前期比で改善にして季節調整値では低く出る?)

 しかしながら、GDPの1~2割の減少は決して小さいものではない。『新型コロナ肺炎に見る感染症問題の理不尽さ - supplysideliberaljp’s blog』にも書いたが、更に問題なのは産業毎にコロナの影響を受ける度合いが大きく違うことである。逆に国民全員の所得が一様に減少するならば、経済的なコロナの影響はまだ我慢できる範囲ではないだろうか?しかし、現実は産業毎に受ける影響の差は激しく、人によってかなり経済的にも厳しい状態を強いられる。私達にできることは、財政の所得再分配機能を発揮してこの難局を乗り越えることだろう。例として年間GDPが15%減少し(以降の数値の設定はかなり適当である)、国民の15%の人の所得がゼロに、それ以外の85%の人の所得は変わらないとしよう。例えばこの場合、所得の変わらない人から所得の1割を拠出してもらって、所得がゼロとなってしまった15%の人に給付すれば、彼らの平時の所得の約57%を補填することができる。考え方としては、自然災害で損害を受けた特定の地域の人を経済的に救済するのと何ら変わらない。この意味では、国民に一律の定額給付金や消費税減税は意味がないし、真に必要な人への支援が少なくなってしまうだろう。日本の(平時の)GDPを500兆円強としても以上の例では45兆円くらいの所得移転となり、十分現実的に可能な数値ではなかろうか?ただし、15%の所得ゼロの人が支出を絞れば、残りの85%の人の所得が変わらないことはなく多少の減少はあるはずである。従って、以上のような給付がこのGDPの2次的な減少を緩和する効果があるだろう。また、財源は取り敢えず国債発行でもよく直ちに税金を徴収する必要はないが、国債を発行すること自体でGDPが増えるわけではないことには注意する必要がある。

 現実的な困難は、そこに所属する人の所得が極端にゼロになる産業ばかりではないし、どの産業がどのくらいの影響を受けるのか、更に個人の所得の減少などを即座に特定するのはほとんど無理なことだ。これには過去の納税のデータを利用することが考えられよう。例えば(以下の数字も適当)、給与所得者や自営業者個人に対して、今年の課税所得が昨年(あるいは直近3年間の平均など)の課税所得の半分に満たない金額を給付する。今年の課税所得は納税期まで分からないが、例えば希望者には申請から毎月10万円を給付し、納税期になって算出された今年の課税所得が昨年の半分を超えていたら、給付金を全てその時に返納させる。昨年の課税所得の半分より今年の課税所得が少なくても、その差額以上に給付金が支給されていれば、その分は返納させる。逆に昨年の課税所得の半分と今年の課税所得との差額が給付金額よりまだ大きいなら、その分を納税手続きとともに更に補填してもよいかもしれないが給付上限は必要だろう。このようなやり方なら迅速な給付ができるし、マイナンバー制度の下で十分可能ではないか?

 企業支援も無視することはできない。企業の消滅に伴って失われる経営資源がないとは限らないからだ。更には『新型コロナ肺炎に見る感染症問題の理不尽さ - supplysideliberaljp’s blog』では「社会の感染確率を下げる行為に対する報酬が必要(休業を条件にした補償)」と書いた。これには過去の売り上げ(営業収益)に基づいた補償が考えられる。売上高から従業員給与や家賃が支払われる。例えば、以上と同様に税務データから一年間の売り上げを推定して300程度で割って一日分を算出し、これの何割かを休業要請に応じた日数分給付する。推定された売上高の規模別に、小さいカテゴリーの事業者には売上の4割程度、売上高が大きいカテゴリーの企業(あるいは雇用調整助成を受ける企業)には売上の15%と雇用調整助成金を組み合わせるなどが考えられる。医療支援も依然最優先だが、感染症に対する対処などが改善するなどすれば、休業要請は必要ではなくなるかもしれない。しかし、休業要請がなくなっても、人々の活動が元のようにならない限り、観光業などはダメージを受け続ける。従って、補償付きの休業要請は救済策でもある。どの範囲に休業要請するのか、いつまで要請するのか、要請解除後どのような制約を付けるかなど困難なことを迅速に決めていく必要があるが、都道府県毎に試行錯誤しながらやっていくよりほかはないだろう。

 

 まとめ

 

・新型コロナ感染下でも、経済の大部分は動いている。

・しかし、影響を受ける度合いが産業や国民の間で激しい。

・自然災害の場合と同様に、所得の減少が大きい人への財政の所得再分配機能の果たす役割は本来大きいはずだ。

所得再分配機能の一つの柱は徴税制度であり、適正な給付に拘って給付を躊躇するのではなく、税制度を利用して事後的に調節すればよい。

 

「新型コロナオペ」に見る日本のマイナス金利政策の問題点

 日本のマイナス金利政策の問題(の一つ)を簡潔に言えば「やっていないに等しい」ことであり、また、その背景にはマイナス金利政策についての無理解があるのだろう。マクロ安定化政策として中央銀行がやることは金利誘導であり、誘導の利幅はその重要な構成要素である。政策金利をゼロからたった0.1%マイナスにしたくらいなら大した効果が出るはずはない。にも拘わらず、これだけ長くやっても効果がでないマイナス金利政策は失敗で、止めてしまった方が良いという意見さえ見られる。これが一般の人なら仕方がないとも思うが、少なからぬ金融や経済の専門家と目される立場の人達なら、どのような専門知識でそのような結論に達するのか、私には理解できない。マイナス金利の本格的な深堀りは、まだ世界のどこもやってはいないが、例えば金利がマイナス5%になった時に、その効果がマイナス0.1%と同じであると考える理由はどこにもない。
 新型コロナのような感染症がある時に、従来的なマクロ安定化政策の優先順位はあまり高くないだろう。従って、日銀が始めた「新型コロナオペ」は景気回復のようなことを意図しているわけではなく、このような社会の危機では、金融市場に不測の事態が起きることをできる限り防ぐことであろう。中央銀行の管轄するような金融市場とは、銀行のような金融機関の行動のよって構成されている。従って、一つの金融機関の危機が、他の金融機関に連鎖することは最も危惧される。金融機関の危機とは、金融機関がなんらかの損失を出して経営危機に陥り、他への支払いが困難になることである。これを防ぐには金融機関がリスクを取らないように損失を出しそうな資産を保有しなければよいが、これは貸し渋りなどが起こることを意味し悩ましい。このため、中央銀行など政府機関がすることは金融機関のリスク負担を肩代わりすることであり、それは実際に損失が出てしまった時には、政府が金融機関の損失を補填することを意味する。また、実際には危機への予防的な措置として、金融機関全体への補助金的な優遇措置がとられることも多い。
 しかし、政府がほとんどのリスクを抱え込むのも納税者の負担を大きくすることになるので、日頃から危機に備えることも重要だ。リーマンショック以来、多くの経済学者は、金融機関により多くの自己資本を積ませることを主張している。一方日本では、金融庁のような行政機関が、経営が脆弱な金融機関に「新たなビジネスモデル」に転換することを要請しているようであるが、経済成長が低迷している時に、金融機関が利益を増やす方法が、そうそうあるとは思えないし、危機時に公的資本注入などで救済されると予想されるなら、なおのこと上手くいきそうには思えないのだが。
 「新型コロナオペ」は、民間金融機関に対し、所定の担保資産額と新型コロナ対策に伴う政府補償が付いている貸出額の二つの合計金額の分、日銀がゼロ金利で貸出をする。この日銀の貸出は金融機関の当座預金(準備預金)に支払われるが、この分増加する準備の付利をプラス0.1%とするというもののようだ。金融機関が日銀からゼロ金利で資金を借り入れ、準備のままで置いておけば、何もせずに0.1%の利鞘を稼ぐことができる。平時ならこれが一体何に対する報酬なのか疑問となろう。この所定の担保資産額に応じたこのような貸出は、金融危機の予防策である(それ以外に理解することは難しい)。
 以上のような問題は、マイナス金利政策にも生じ得る。マイナス金利政策は、本来は銀行間市場の金利政策金利の一つ)を中央銀行がマイナスに誘導するものである。つまり、中央銀行が民間の金融機関にマイナス金利での貸出をオファーすることで誘導できる。この中央銀行のマイナス金利オファーに民間金融機関が応じれば、中央銀行はその準備預金に送金する。そこでもし、例えば準備預金の付利がゼロ金利なら、その金融機関は中央銀行から借りた資金を準備預金に置いておくだけで、マイナス金利分を手元に残すことができる。金融機関は中央銀行からマイナス金利で借りはするが、それ以上は何もしなくてもよいのでマイナス金利はそれ以上波及していかない(結局民間の支出に繋がることはない)。これを防ぐには、民間金融機関が中央銀行からマイナス金利で借り入れた分の準備に対して、同じマイナス金利を付利しておく必要がある。そうすれば、民間金融機関は中央銀行からマイナス金利で借りた資金を準備に置いておいても利益にはならないので、準備のマイナス付利より条件の良い収益を求めてその資金を運用する必要がある。そうすることでマイナス金利は波及していくことになる。従って、増加する準備預金に対するマイナス付利は必要なことである。
 「新型コロナオペ」のもう一つの対象である、金融機関が行う新型コロナ対策に伴う政府補償付きの貸出は、これを利用する事業者が一定の要件を満たせばゼロ金利となるようだが(詳しくはよく分からないが、貸出金利を政府が補填もするようだ)、金融機関は例え貸し倒れが政府から補償されリスクが無くなっても、資金コストがゼロ金利であればゼロ金利で事業者に貸出しても利益にはならず、金融機関の操業上の費用が持ち出しになる。従って、この制度に対し金融機関が積極的になるには、報酬が別途必要であり「新型コロナオペ」がその役割を担っているのだろう(増加する準備の付利をプラス0.1%とすることによる)。本来的にはこのような金融機関の支援と政府補償付きの貸出額とリンクさせる必要はないように思うが、そのような貸出を増やすためのインセンティブにはなるだろう。
 以上のような信用保証を含む政府の一連の金融支援によって銀行の貸出は増えている。マイナス金利深堀りに否定的な意見の中には、金融機関収益が減少することが挙げられている。しかし、現状でも金融機関の収益に準備預金のマイナス付利の影響はほとんどないと言ってよい。実際にはマイナス付利されている準備預金は極一部であり、多くはむしろ以上のようなプラス0.1%付利だからである。このように準備預金のマイナス付利はある範囲を超えた分だけで良いので、金融機関の収益には脅威にはならない。マイナス金利政策が銀行の収益に負の要因となり得るのは、低金利で貸出金利が低下する一方、預金金利をマイナスにできないかもしれない点である。しかし、実際に預金金利をマイナス金利には全くできないのかは、マイナス金利深堀りを経験したことがないので本当のところは分からない。企業向けや大口預金なら可能ではないかと思うが、金融機関が個人向けの預金などにはマイナス金利を回避した分に応じて補助してやればよい。やり方は以上と基本的に同じであり、個人向けの預金に対するマイナス金利を回避した額に応じ、準備預金のマイナス付利を免除すればよい(『日銀が「現金レンタル始めました」と言ってマイナス金利深堀りする日が来るか?』参照。)

supplysideliberaljp.hatenablog.com 今はまだ、マクロ安定化政策として金融緩和をすべき時ではない。また、新型コロナのワクチンは治療法が確立された時、抑圧された需要が噴出してくるだろう。この需要の反動増が一巡した時、マイナス金利深堀りの検討を余儀なくされることになるかもしれない。金融政策を決定する人々が不勉強のためマイナス金利を理解せずに実施しないことを決めるなら失われた20年を超えて不況が続くことを心配する。

新型コロナ肺炎に見る感染症問題の理不尽さ

 感染症についてブログに書くのは、正直専門的な知識がないので少々気が引けるが、経済学の立場から書くべきこともあるかと思う。経済学の視点や用語などで問題点を挙げるなら、1)医療の供給サイドの問題と、2)感染拡大防止の個人の行動に分けてみたい。医療の供給サイドの問題には、感染症に対する医療資源(供給能力)は短期的に増えないことと、医療を価格メカニズムからある程度除外していることの2点がある。前者は医療の専門能力から明らかであり、後者は価格メカニズムに依存し過ぎると金持ちしか助からないかもしれないなど人権その他の問題からそうしているのである。これらの2点については、需給の調整は価格変化以外の手段で行われるのであるが、一般にその代表的な需給調整には早い者勝ちや、列を作ることで金額の代わりに時間をより多く投入できる順で解決されたりする。これは感染症問題にも多少なりとも当てはまるように思われる。
 感染拡大防止の個人行動についての問題には、外部性、不確実性、非対称性などがあり、これら3つは絡み合っている。この新型コロナ肺炎で個人が最も重視するのは、命にかかわるような重症化することだろう。この重症化リスクを極力排除するには、そもそも感染しないようにすべきなのは明らかだが、感染する危険を最大限排除するのは難しい。これから、いつ終わるとも分からぬまま家に閉じ籠って生活を続けるのは無理だろう。つまり、個々人がどのくらいの感染リスク(不確実性)を受け入れるか意思決定する必要があり、このような不確実性の問題には、確率的な判断を迫られるが、感染する確率と重症化する確率の2つの確率を(別々に)考慮する必要がある。そしてその判断には重症化し易さの個人差(の非対称性)が強く影響してくると考えられる。新型コロナ肺炎の場合、これまでに肺はもちろん何らかの疾患がある人や高齢者は重症化し易いと言われているが、それには信憑性がある。裏を返せば、健康な若者は感染しても重症化し難いというのは、程度の問題ではあるが間違ってはいないのだろう。健康な若者で感染して重症化する人はいるにはいるが、他の条件の人よりその確率は低いだろうということだ。海外などの例から感染者の重症化率は2割とも言われている(現在の世界の状況では検査によって感染が分かってから更に死に至るのは5%弱のようだが、検査を受けずに治る人がいればもっとこの確率は低い反面、データに乗らない死亡もないとは限らない)。しかし、その確率は平均的なものであって非対称であれば、実際に健康な若者は死ぬ確率が低い限り娯楽を諦める必要はなないと考えるかもしれない。それは株価暴落のリスクはあるけれど、その確率が極めて小さい限り株式投資するのと似た合理的考えである。また、株価暴落を予想する確率は個々人で差があり、それをあまり大きいと見込まない人ほどその資産に占める株式割合が大きくなるだろう。
 しかし、社会全体の感染率の変化は個人の行動に影響を与える一方、個々人の行動が社会全体の感染率を形成する。市中に出て人との接触が増えれば増えるほど自らの感染率は高まるが、同時に自分が感染することは、他人に感染させてしまう確率も高めることになり、そこには外部性の問題が存在するのである。外部性あるいは外部効果とは、ある行動が市場における価格の変動以外で他人の利害に影響してしまうことである。出歩くことで市中により多くのウィルスが拡散し、別の人の感染確率が高まることで、被害を与えたり他人の行動を制約したりする。これが社会に少なからぬ軋轢を生むかもしれない。自らの重症化リスクを高く評価する人は、他人にもなるべく出歩かないで感染し他にうつすことを謹んで欲しいだろう。しかし、重症化するリスクの少ない人は、他人のために自分の行動を「過度」には制限したくないだろう。高齢者等のために若者に自粛を要請する場合に、若者は何故他人のために自己犠牲を強いられるのか、高齢者は若者の頃出歩く自由を謳歌しただろう、と思うかもしれない。このような外部性に対する対処は、外部不経済をもたらす人に罰則か報酬を社会的に設定して行動を抑制することであり、どちらも同等な効果が得られる。政治的なことを言えば、いわゆるシルバー民主主義に陥れば、高齢者に感染させないという対策が打ち出され易いかもしれないが、若者に一方的に自己犠牲を強いるの「理不尽」なことではないかと思う。罰則(外出したら逮捕など)で抑制する前に、自粛に対する報酬を考えるべきだろう。少なくとも若者の言い分にも聞く耳を持ってあげたいものだ。
 以上の非対称性などの問題は、医療資源が限られていることにも関係してくる。医療資源が限られていることで起こるのが医療崩壊だが、例えば新型コロナ肺炎の感染拡大の最初のうちなら病床(ベッド)も人工呼吸器に余裕があるので、仮に重症化しても死に至る確率は下がっている。しかし、だからと言って医療のキャパシティーに余裕があるうちに出歩いた人達が感染しても助かり易いが、そういう人達が多ければ感染が拡大し感染率が上がって医療がひっ迫してから感染した人が助からなくなる確率は上昇するだろう。医療資源は早い者勝ちの側面があり、自粛せずに最初に感染した人ほど助かって、ある程度自粛していたのに感染が蔓延し医療崩壊してから感染して死んでしまう人がいたら、これほど「理不尽」なことはない。集団免疫という考えがあるようだが、それに基づいてどんどん感染しろと言って、医療崩壊してしまったら最悪だ。医療崩壊は新型コロナ肺炎だけでなく他の全ての医療患者に大きな影響がある。自分が重症化するリスクが小さいと思って出歩きたい人の行動を抑制する良い報酬システムが出来なかったり、医療崩壊のリスクが顕在化したりする場合には、強権的に人々の行動を抑制することにも、従って合理性はある。しかし、それも不必要な社会的軋轢を生む可能性もあり、できれば避けたいところだ。
 医療の供給制約に対し、ある程度価格メカニズムで解決しようとすれば、新型コロナ肺炎の治療が高額になり、治療の支払いができない人は重症化する確率が少々低くても感染しないように行動を自粛するかもしれないが、実際感染しても医療にかからない人が増えればアメリカのように、感染が蔓延して感染が拡大する外部効果が働くだろう。また、マスクなどの不足を価格メカニズムに依るなら、その価格が上昇することで生産の増加を促す。しかし、その過程では転売などによる利益機会を生む。高額の転売は人が困っていることに付け込むようで批判を受けることになったが、それで高額の転売を禁止してマスクが退蔵されてしまえば、問題は何も解決しないし、むしろ状況は悪くなるかもしれない。せいぜい取引金額の上限を設定するか、可能であれば一人の取引量を制限することだ。あるいはマスク、消毒液の大量の在庫に対しては、ある程度の高値で政府が買い取って医療機関や必要度の高い所に格安提供することができるかもしれない。
 また、このような事態では、景気より感染拡大防止が優先される。感染は人と人の接触で起こるのであれば、必需品ではなくかつ人と人との接触が伴う産業は極力停止させることが望ましい。これは需要と供給双方を抑制する必要があるので、通常のマクロ安定化としての需給ギャップや経済成長などに基づく判断の優先度は低くなる。需要者側にそういうことをしないように要請しても、供給があれば需要することは可能だ。一方、供給がなければ需要することはできない。カラオケボックスやバーに行くなと言うより、そういう営業するなと言う方が効果はあるかもしれない。もちろん、社会の感染確率を低下させるために、必需品でなくかつ人と人との接触を伴う産業の活動を抑制させれば、当然そこに従事する人達の経済的な損失は大きい。従って、そのような損失を強いるのは「理不尽」であって、外部性の考えに従い社会の感染確率を下げる行為に対する報酬が必要(休業を条件にした補償)である。批判という社会的制裁で解決しようとするのは非効率であり「理不尽」だ。
 必需品でなくかつ人と人との接触を伴う産業を停止させたいなら、その社会への貢献に対する報酬が必要であるとともに、経済が不必要に急速に悪化するなら、それにも政府は対処すべきだ。ハーバード大のマンキュー教授は、まず国民一律に給付してしまってから、後で税務によって調整すればよいと提案している。この場合、まず一律というのはコストをかけず迅速に対処できるからであると理解するべきであり、後で税務によって調整するというのは、結局は一律に給付することをむしろ否定している。例年と所得があまり変わらない人より、所得を減らす人に厚く手当てするのは、必需品でなくかつ人と人との接触を伴う産業に従事する人を救済することとそれほど矛盾はない。このように特定の産業に絞って財政措置をすることは、消費税減税のような一律的な措置より(財政コスト1円当たりの)感染拡大防止効果は大きい。特定の産業の供給を許しながら(少なくとも供給を止めることを誘導しないまま)、国民に一律的に財政支援をするなら、その特定の産業の需要をも増やすことになりかねないからだ。人々の行動を変えることで個人の感染確率が変わるだけでなく、社会全体の感染確率も変わり(外部性)、その結果重症化する確率は低下できる。そのために批判や要請に依るのは「理不尽」であるだけでなく、有効でもなく、適切な政策による誘導が必要だ。しかし、このような時に社会が最も頼りにする医療関係者の人の感染確率が最も高くなることはなんとも「理不尽」なことである。

 

  最近思いつくままに呟いた一連のツイートより

高い実質賃金はデフレ自慢で悪いことなのか?

 年明け国会も始まり、枝野立憲民主党代表が代表質問において、実質賃金が低下していることを問いただしたのに対し、安倍総理大臣の答弁は「ことさら実質値の改善を持ち出すのはデフレを自慢するようなものだ。そろそろ、そのことに気付いた方がよろしいのではないか」であったと報道されている。このような安倍総理の見解自体はこれまでも繰り返されてきたことである。これに対する経済学者の指摘を私はあまり知らないが、経済学者がそれに何も物申さないのは、その社会的な使命を果たす上ではよろしくないのではないかと思い、私が末席から忖度することなく少し物申してみたいと思う。
 「実質」という概念は簡単に言うと、物価の変動分を調整する、ということである。例えば、所得金額が一定で物価だけが上昇すれば、購買力の低下を招く。つまり、実質化は数量の変動を問題にすることであり、私達は金額そのものものより数量的な変化で豊かさを感じるはずだからである。安倍総理の答弁に対して、実質賃金下落(物価上昇)のおかげで暮らし向きが悪くなっているというネットの反応も見られたが、実質賃金の下落とはそういうものであり、そのような反応は無理からぬものだ。経済を考えるうえで、実質値で見ることは基本である。
 安倍総理は物価の下落であるデフレは、以上のような実質化とは別の、何か悪いことだと思い込んでいるように見えるが、恐らくそれはリフレ派からの影響を強く受けているのかもしれない。物価下落(貨幣価値の上昇)自体が悪いかどうかはそれほど簡単には言えないが、デフレが悪いものという考えは、デフレは景気の悪化に伴うことが多いからであろう。しかし、それは悪いことの本質は景気が悪いことの方であって、物価下落自体にあるかどうかは分からない。それに対し、リフレ派と呼ばれる人達の主張は、物価の下落が景気悪化の「原因」か、少なくても物価の下落が景気の悪化を長引かせたりすると主張した。「デフレ・スパイラル」というのが一つの象徴的な言葉である。だからこそ彼らは「まずデフレを止めよ」などと言い出したのである。
 浜田宏一内閣官房参与は、実質賃金が下がることで企業はより多く雇用しようとするから景気が回復すると説明している。最近の雇用の増加からこのような動きが実現したと考える人もいるだろう。名目賃金は上がらないが物価が上がることで実質賃金が下がり、企業の実質賃金コストが下がるから雇用を増やすということである。しかし、名目賃金が上昇し物価に追いついて元々の実質賃金に戻れば企業は元の雇用量に戻すだろうし、企業がそうなることを見越していれば最初から雇用を増やそうとしないかもしれない。これは比較的少数の失業者だけが不幸であるより、全員が少しずつ貧しくなった方が望ましいという価値観からは大変良いことだろうが、名目賃金が上がってはならないと言っていた人がいたとは思わない。もちろん、(予想)物価上昇は実質賃金だけではなく、実質金利も低下させる。実質金利が低下すれば企業が投資を増やし、その結果生産性が向上すれば名目賃金も上がる。このような生産性の上昇によって初めて名目賃金の上昇は持続可能なものとなる。しかし、このシナリオが実現していれば、雇用は増え生産性も上がっているから生産量は相当程度増えていないとならない。従って、実質経済成長の低迷はリフレ派には不都合な真実なのである。実質経済成長が低迷しなければ、彼らが消費税増税を目の敵のように批判する必要はない。また、消費税増税がリフレ政策に影響したなら「デフレは貨幣現象」を自ら否定している。
 実質賃金が下がった原因は消費者物価の上昇である一方、日本銀行は2013年に物価上昇目標を政府との政策協定として約束し、以来自ら掲げた2年以内に(消費者)物価前年比2%上昇を掲げたが、2年以内どころか未だに一度も達成されていない。このギャップにあるのは消費税増税であろう。日銀の目標とする物価上昇は消費税増税を調整したものであるのに対し、実質賃金は名目賃金を消費税込みの消費者物価指数が使われる。消費税増税で物価が上がったことは自慢にならないだろうし、消費税増税を決断し実施した以上は、安倍総理はそう決断した理由を訴えて実質賃金が下落することを認めつつ、増税の必要性を訴えた方がまだ良かったかもしれない。
 このように税増税を除けば物価の上昇は小さいが、消費税以外の物価上昇要因としては円安による輸入物価の上昇もある。企業が雇用を決める実質賃金は、企業の生産・販売する価格である必要がある。円安で円換算した輸出価格も上がるが、実際に雇用の増加を牽引したのは医療や介護などの国内のサービス産業である。輸出企業は主に製造業でありその雇用は既に経済全体からは大分小さくなっていて雇用を吸収してはいない。消費税増税や円安を除いて物価は上がっていない以上、リフレ政策のシナリオは崩壊する。(雇用が人口動態の影響であることは以下を参照。)

supplysideliberaljp.hatenablog.com

もちろん重要なのは物価上昇の予想であるが、いつまでも物価が上がらないのに、企業が販売価格の上昇を予想し続けるわけはない。
 ノーベル賞受賞経済学者であるポール・クルーグマンは、度々日本経済に対し論評、助言をしてきた。最近は安倍政権の経済政策について、消費税増税の実施は一貫性に欠くと批判している。しかし、政府は、リフレ政策が雇用を改善し、景気は回復を続けているとの見解を崩しておらず、それを前提とすれば、消費税増税を実施したのはむしろ一貫した立場と言えるかもしれない。つまり、デフレ悪玉論を鵜呑みし、政府は物価の下落が止まったので、デフレでもインフレでもない状況を作ったとし、それで雇用や経済が良くなっており実質賃金の低下はやむを得ないと思いこんでしまったのではないだろうか?しかし実際には、物価上昇はリフレ政策(量的緩和インフレ目標)の効果というより消費税増税であり、また実質値で見ることでより正確に経済の状況が把握できる。デフレ=絶対悪という思い込みから抜け出せば、物価上昇や実質賃金の低下は国民を豊かにしないということにも、もう少しは考えが及ぶのではないだろうか?リフレ(物価上昇からの景気回復)が崩壊しているにも関わらず、未だに「リフレは正しい」と強弁するリフレ派のオピニオン・リーダーは、政府を惑わした責任を感じるべきではなかろうか。

日銀が「現金レンタル始めました」と言ってマイナス金利深堀りする日が来るか?

 今年2019年10月の消費税増税を前に、アメリカ・トランプ政権の通商外交政策から貿易摩擦が生じ、世界経済の行先、そして日本経済への影響が心配されている。オリンピック特需の終了もあり、消費税増税が実施される10月以降景気が悪化する可能性は高まりこそすれ、小さくなりそうにない。しかし、消費税増税以外に日本経済を心配すべき要因があるわけで、もし日本経済が悪化しても、その全てを消費税増税の悪影響に帰することはできないということだろう。前回の消費税増税では、経済の悪化の全てを消費税増税のせいにするような意見が頻繁に見られたが、それは全くフェアではなく現実を正しく見ようとしていると思えない。
 最近までのマクロ安定化政策を担うのは世界的には金融政策であったが、ゼロ金利に到達した経済では手詰まりになっている、という意見が益々増えてている。しかし、本当にそうだろうか?ゼロ金利でも景気悪化が心配されるなら、マイナス金利深堀りをすべきである。直近の日銀金融政策会合で、一人の委員からマイナス金利深堀りを示唆する発言もあり、以前よりは、マイナス金利深堀りの注目度は上がったようにも思える。この状況で日銀がマイナス金利深堀りに踏み切る可能性はやや高まったのだろうか?それまでその委員の出身企業グループの銀行の経営陣がマイナス金利に反対する発言もあり、その委員もこれまでマイナス金利に対してどちらかというと否定的だったようなので、彼の本気度は私には半信半疑ではあるのだが。
 欧米では、今ではマイナス金利政策に好意的な研究者はそれなりに多くいるが、それはリーマン・ショックで欧米がゼロ金利に到達した頃からのことである。しかし、日本ではその20年近く前からゼロ金利状態であるのに、マイナス金利の発想はそれまでほとんど見られなかった。代わりに日本では、リフレと呼ばれる政策が一部から推奨され、それは具体的には金融政策では尋常でない量的緩和インフレ目標政策であり、その狙いはインフレ期待を醸成し実質金利を下げることにあった。それに対し主流の経済学者は、そのような政策で果たしてインフレ期待が起こるのか懐疑的であったが、第二次安倍政権への政権交代によって実行に移された。実際、日銀は政府との政策協定として物価上昇を約束し、日銀政策委員会は物価目標を2%に定めたが、この目標値は未だに達成されておらず、今なお継続しており、結局はインフレ期待は殆ど起こらず失敗に終わった。この目標に賛成した多数の日銀金融政策委員は、実質金利をマイナス2%まで下げる必要があることを認めていると考えてよいだろう。そうであればマイナス金利政策が実施された以降でさえ、物価上昇目標2%に賛成している政策委員がマイナス金利を少なくとも-2%まで下げようとはしないのは全く疑問である。
 しかし、そうは言ってもマイナス金利は日本ではあまり評判がよくない。私の経済学の知見では、マイナス金利政策を実行に移すのは極自然な考えだが、私が知る限り日本の経済学者で積極的にマイナス金利を支持している人は他に殆ど見当たらない。特に金融のミクロの研究が主な研究者がマイナス金利に批判的な場合が多いようだが(その理由は後述するように銀行の金融仲介機能への懸念であろう)、日本のマクロ経済学者にはマイナス金利深堀りを支持する人がもっと出てきてもいいと思うのだが…。
 確かに欧米でも最近までマイナス金利政策には慎重であった。その理由は現金というゼロ金利の金融資産の存在であった。しかし、マイナス金利政策を積極的に支持しているマイルズ・キンボールは、既に流通して現金はマイナス金利になったら退蔵されて流通しないのだから、それ自体に悪影響はない。問題はマイナス金利を利用して中央銀行から現金を引き出す裁定行為であるが、その現金は中央銀行からしか発行されないので、裁定行為が起こらないように中央銀行の現金窓口で課金すればよい、としマイルズ・キンボールのブログIMFワーキング・ペーパーでその方法を解説している(私の翻訳はこれこれなどであり、また、私自身も拙著この論文で解説している)。
 マイルズ・キンボールらの努力によって、現金の存在はマイナス金利政策の脅威であるという認識は薄れた。しかし、最近のマイナス金利政策への最大のチャレンジは、銀行がマイナス金利を預金金利に転嫁できず、(少なくともプラス金利下で)期待されるような機能を発揮できないのではないか、という点に移った。一方、スイス国立銀行は、マイルズ・キンボールの提案とはやや違った方法で、現金裁定を防止する方法を実施している。このスイス国立銀行の方法は、現在の日銀のマイナス金利政策に近いとも言えるが、マイルズ・キンボールはこれを「レンタル・アプローチ」と呼び、更に金融機関の金融仲介機能の維持をより容易にするために、小口の預金などをマイナス金利から遮断する方法をこれに加えたものを、共同研究者と最近新たに発表したIMFワーキング・ペーパーの中で解説している。ただし、富裕層や企業などの預金にマイナス金利が波及するのは、マイナス金利政策効果の波及ルートの一つであることにも注意する必要がある。
 そもそも金融政策とは中央銀行による金利誘導である。典型的な方法として、銀行間市場のような参加者が限られており、中央銀行はコントロール可能な短期金利(日本ではコール翌日物金利等)の参照レートを公表し、それから外れないように市場介入する。例えば、それまで銀行間市場短期金利が2%であったのを、日銀が1%に利下げ誘導すると発表した場合、この市場での資金の借り手は1%より高い金利で資金を調達するより、日銀が介入してくるので1%で調達することが可能になるだろう。銀行間市場で調達した資金は日銀にある準備預金口座に振り込まれるが、もしそれで増加する準備預金に日銀が2%の付利をしていたらどうだろうか?銀行間市場で日銀などから1%で借り入れた資金を、そのまま準備預金で置いておくだけで2%-1%=1%の鞘がとれるので、銀行はこのような取引だけでいくらでも利益を出すことができる。このため、銀行がこれ以上何もしなければ(恐らくそうする)、日銀の金利誘導は他の市場や実物経済へは波及しない。比較的最近までは準備預金の付利はなく(0%)、ゼロ以下でない金利下ではこのような心配はなかった。しかし、ゼロ金利より下げてマイナスに金利を誘導をしようとすれば、(少なくとも追加的に増える)準備預金への付利を、日銀の誘導する金利と連動させる必要がある。日銀が銀行間市場金利を1%に誘導した時、同時に追加的に増える準備預金付利も少なくとも1%以下にすれば、銀行市場で資金調達する銀行は1%で借りると同時に準備預金で日銀に貸していることと同じであるから、利益は相殺される。従って、銀行が利下げされた資金調達を有効に利用するには、準備預金以外で資金を運用する必要があり、その結果として利下げ効果が波及していく。このため超過準備が潤沢にあれば、準備への付利水準が誘導金利(政策金利)として働く。日銀が巨額の超過準備にプラス0.1%付利をし続けるのは、利下げ効果を減殺しているだろう。
 以上の事情は、金利がマイナスの場合でも同様である。しかし、マイナス金利の場合、銀行にはまだ現金というゼロ金利の抜け道がある。つまり、金融機関は銀行間市場でマイナス金利で調達し、準備預金に振り込まれる資金を現金で引き出してしまえばよい。銀行間市場で借りた資金にマイナス金利であれば、借り入れた資金より少ない額の返済でよいので、引き出した現金のマイナス金利分を残すことができ利益が得られるからである。これを防ぐための一つの有効な方法が、マイルズ・キンボールが提案している中央銀行の窓口で課金する預入手数料方式があるが、スイス国立銀行はそれとは別の次のような方法を既に実施している。
 スイス国立銀行は、準備預金に対する付利をゼロ金利とマイナス金利の二層に分けている(日本では現在では+0.1、0%、-0.1%の三層である)。金融機関が通常の業務で電信(ワイヤー)による取引をする場合、その決済に使われる対象となるのはマイナス金利が付利された準備預金である。例えば、銀行間市場でマイナス金利で借り入れた資金は電信扱いであるから、それによって資金が増える準備預金にはマイナス金利が適用される。それに対し、金融機関が現金を引き出したり預けたりする場合には、ゼロ金利が付利された準備が増減する。例えば、マイナス金利で調達した資金はマイナス金利付利準備を増やすが、この資金を現金で引き出した場合に減るのはゼロ金利付利の準備であり、結果マイナス金利付利の準備が増加しているので、利益は得られなくなる。
 マイルズ・キンボールらは、以上のような方法を比喩的にレンタル・アプローチと呼んでいる。中央銀行の現金の発行は、現金を必要とする人に一時的に貸し出しているようなものであり、使う必要がなくなれば、銀行を通じて中央銀行に返済することができる。中央銀行はマイナス金利の間、金融機関に対して現金の「レンタル料」のようなものを徴収するのである。そして更に小口の預金をマイナス金利から遮断する方法を組み合わせている。つまり、マイナス金利政策実行中に、金融機関がある条件を満たす顧客の預金に対してゼロ金利を適用した総額に対し、中央銀行はその金融機関のマイナス金利が付利されている準備預金からその同額を控除してゼロ金利適用にするのである。例えば月間平均残高100万円未満の全ての決済性預金を自動的に、あるいは個人(零細企業も可)一人につき申請(マイナンバー等を利用する)によって一銀行口座を選択させそこで500万円までの決済性預金を対象預金とするなどとして、各金融機関がそれらの対象預金にゼロ金利を適用した総額と同額の準備預金をマイナス金利の付利から免除するというものだ。これによって、民間金融機関がマイナス金利から小口の預金を遮断しゼロ金利にするように誘導できる。
 このアイデアを具体的に定式化してみよう(ただし、この定式化は私自身による)。まず、マイナス金利政策が開始して例えばtか月後の、各金融機関が中央銀行から準備預金を現金で引き出した累積純現金引出し額NWtを次のように定める。マイナス金利政策が実施される前までの累積純現金引出し額をゼロとしておき(NW0=0)、NWt=NWt-1+nwtとする。ここでNWtがストックであるのに対し、nwtは当該金融機関の月間tのフローの純現金引出し額である。例えば、dをある金融機関の準備預金への月間現金預け額とし、wを月間の現金引出し額とすればnwt=wt-dtである。準備預金に付利されるマイナス金利(=銀行間市場の誘導金利)を-itとすると、itNWtが金融機関が支払う「現金レンタル料」になる。更に、スイスのように小規模金融機関に配慮して、金融機関に対して一定額の最低限のゼロ金利適用準備額Aを定める。また、各金融機関の法定準備額をRtとしてBt=max[At,kRt]とする。ここでkは中央銀行が定める定数であり(例えば、1.1)、AtかkRtの大きい方をある金融機関のBt(ゼロ金利適用準備の一部分)とするのである。

  そして、予め定められた預金に対し、各金融機関がそれらの預金にゼロ金利を適用した預金の総額をCとする。各金融機関の準備預金額Rから、BとCを控除した分をマイナス金利適用準備預金とする。従って、マイナス金利政策において各金融機関が(翌月になって)準備預金に関して中央銀行に支払う月間の金額は

    it (Rt-Bt-Ct+NWt)

となる(つまり、ゼロ金利適用準備預金額は、Bt+Ct-NWt)。ただし、実際現在の日本でこのような制度を導入する場合、既にマイナスでない付利の超過準備が巨額で結果的にRが大きくなり過ぎていることから、金融機関の理解を得るためにはBtに相当する部分を大きく設定しておく必要があるだろう(kを大きくとる)。金融機関が制度を十分に理解していれば、NWtが深刻になることはなくマネジメントできるだろう。加えて、重要なのは中央銀行はRt-Bt-Ct+NWtはある程度小さくなるようにコントロールすることが可能であり、その結果金融機関のマイナス金利の準備付利負担が大きくなり過ぎないようにできる(ほとんどゼロに近くなるようにして、マイナス金利付利負担がほとんどないようにもできるだろう)。
 これによって、金融機関は小口の預金をゼロ金利に保つことが利益の毀損にはならなくなる一方、富裕層の大口預金や企業の預金にマイナス金利を適用するかどうかの選択を迫られることになる。マイナス金利を有効に波及させるためには、富裕層や企業の預金にはマイナス金利が付されることが望ましいが、金融機関にはマイナス金利のそのような転嫁が難しくマイナス金利貸出を増やせない場合には、ゼロ金利を維持することによってゼロ金利準備が増える預金の範囲を拡げることも可能である(実際には、マイナス金利政策効果を弱める側面もあるので、この適用範囲拡大は慎重であるべきだろう)。また、私が挙げた上記の具体例のような場合、新たに別の金融機関の口座を開設して100万円未満の預金が増えるかもしれない。そもそも、これは金融機関の名寄せを簡略化するためであるが、少額預金口座の増加が結果的に金融機関の管理費用を増やすことになる場合、マイナス金利以降新たに開設される少額口座にも金融機関が何らかの管理料を課すか、あるいは完全に名寄せすることにして個人のゼロ金利の預金の限度額を1000万円までとしてしまうことが必要だろう。
 金融緩和は経済の利子率水準を下げることである一方、銀行のような金融仲介機関の利益に重要なのは調達金利と運用金利差、つまり利鞘である。貸出の場合は、金融機関が中央銀行からマイナス金利で調達できても、その調達資金の一部となる預金金利をマイナスにできなければ、マイナスの貸出金利を転嫁できずに利益が圧迫されることになる。しかし、マイナス金利政策が金融機関の利鞘に影響することがあったとしても、このように工夫次第である程度克服できるのではないだろうか。逆に不況となり、経済の投資収益率が下がっていることが金融機関の利益に悪影響しているならば、それは金融政策とは無関係である。むしろ、金融機関の調達金利を金融政策で下げることで、経済全体の投資資金の調達金利を下げるのが金融政策なのである。ゼロ金利でも景気が回復しないなら、マイナス金利を試すのは自然な発想だ。
 ゼロ金利状態は、中央銀行に金融緩和のイノベーションを迫った。平時であれば金融政策を決める人達は、経済の良し悪しを見極めて金利の上げ下げを決めればよかった。それ自体は、適時行うという難しさはあるものの、極論すれば経済や金融政策の知識がなくとも空気を読んでさえいればできるのかもしれない。しかし、ゼロ金利に到達し従来の緩和策が使えなくなった時、金融政策を決める人達が真に金融政策に関する知見がなければ、金融政策のイノベーションなど起こせる筈はない。
 さて、日銀が「現金レンタル始めました」と言ってマイナス金利深堀りすることはあるだろうか?もちろん、それは日銀金融政策決定会合次第であるが、次回や近いうちであれば、今の日銀なら更に利下げしても-0.3%くらいまで下げるのがせいぜいのような気がする。しかし、私は今でも-3%くらいは下げる必要があると考える。金融機関は-3%で調達できれば-1%で貸出しても利益が出せる。また、富裕層の大口預金や企業向けの預金金利が-0.5%になってもそれなりに緩和効果は出てくる。また、利下げの銀行を通じた波及効果は重要ではあるが、資本市場でマイナス金利となり、社債発行などが活発化しても金融緩和効果は顕れる。このように銀行を経由する以外でもマイナス金利の効果はあるだろう。しかし、私が考える最も起こりそうな日銀が本格的にマイナス金利深堀りをするシナリオは、アメリカが大きな不況に陥ってから大胆にマイナス金利深堀りをして経済が回復するのを目の当たりしてからのように思う。
 マイナス金利を深堀りする金融政策は、まだ世界のどこも実施してはいない。単に政策金利をマイナスにするだけではなかなか上手くいかないのだろう。しかし、遅かれ早かれ、この未知の世界に各国の中央銀行は踏み出していかざるをえないとすれば、マイナス金利は効果がないとか金融機関の収益がどうのとばかり言っていないで、どうしたら上手くいくのか知恵を絞ることが必要だ。

マイナス金利政策についての質問を「質問箱」で受け付けています。

MMT、ステファニー・ケルトン教授が来日して語ったことに反論する

 最近、日本でもModern Monetary Theory(MMT)と呼ばれる考えが注目され、その提唱者の一人であるステファニー・ケルトン教授(ニューヨーク州立大学)が来日し、彼女の考えがメディアなどに取り上げられた。正直私はMMTがそれ程目新しい考えとは思わないが、経済学は長年に得られた共通の理解に基づいて議論するので、それはある意味当然とも言えるだろう。しかし、ケルトン教授は多少興味深いことも言っているし、経済学の考えの一部でも一般の関心を呼ぶのは経済学や経済学者にとって良いことの筈だ。ここでは第三者のおかしな解釈が入り込むことを避けるために、メディア等が伝えた中でも彼女自身が語ったとされる言説のみを参考にした。ケルトン教授の考えを知る上で参照したものとしては、記者会見三橋貴明×ステファニー・ケルト概論、MMT(現代貨幣理論)MMTと日本経済の謎、などの動画及び、日経新聞7月16日)、朝日新聞7月16日)、Bloomberg7月19日)の記事などである。

財政破綻はほとんど起こらないし、インフレもまたほとんど起こらないのか?

 財政破綻について語るためには、まず何をもって財政破綻とするか定義しておく必要がある。財政破綻国債のデフォルト、つまり国債償還に何らかの支障をきたすこととした場合、MMTを解説したものには、よく償還財源に通貨発行を充てれば(overt monetary financing)償還不能にならないと語られるが、これ自体は別に目新しいものではない。その場合に、従来の議論ではインフレが起きることが懸念されるので、国債償還できても過度なインフレが起こることを財政破綻の中に含めて議論することも可能である。しかし、ケルトン教授によれば、通貨(消費価値のない法定通貨、表券通貨)が人々にとって価値を持つのは、政府が発行した通貨による納税を求めているためであるしている。つまり、その結果通貨がゆくゆくは納税に必要となると民間が予想している限り需要され続けるので安定的な価値を持ちインフレにはならない、と考えるからであろう。従って、徴税能力の低い後進国では過度なインフレが起こり得ても、先進国ではインフレは起こり難いことと整合的であるという。このような議論を私は少なくとも数年前から目にしておりなかなか興味深いものであるが、この通貨価値の源泉に納税求めることこそが、むしろMMT財政破綻に関する主張では重要であろう。つまり、MMT財政破綻もインフレも起きないという主張は、財政支出に伴って発行される通貨がいずれは徴税で回収されることが前提であり、いずれにしても納税は不可欠なものである。例えばこれに対して、リフレ派の主張は、量的緩和中央銀行が民間から買い入れて通貨(マネタリーベース)で支払って国債保有することになれば、その分の国債発行残高は返済の心配はなくなる(統合政府)一方で、通貨の増加によってインフレが起きて経済が好転するというものだった。しかし、MMTでは財政資金の調達するのが国債発行でも通貨発行でも、単に増税を将来に先送りしていることには変わりはないので、国債と通貨を振り替える量的緩和を日本のような国でいくらやっても、インフレなど何も起きないと考えるのだろう。極端な言い方をすれば、増税して財政支出を増やしてもインフレが起きないと主張しているに過ぎない。

・インフレにはどう対処すべきか?

 ケルトン教授は記者会見で、過度なインフレが起こった場合にどう対処するのか?という質問を二度も受けている。何故二度も受けたかと言えば、彼女はそれに(二度とも)直接は答えなかったからである。以上で述べたように、徴税能力のある先進国では過度なインフレは起こりえないと考えるならば、起こりえないものに対し回答する意味がないと考えたとしても、それはむしろ一貫しているともいえる。

 一方で、ケルトン教授は政府支出に伴って発行された通貨の全てを(徴税で)回収する必要はない、とも述べている。通貨が決済手段としての便益をもたらすので、流通させておく通貨が一定量必要だからであろう。従って、政府は財政支出で発行した通貨(国債も同様に)の、どのくらいを徴税によって回収するか税制度を決めなくてはならない。もし民間が支払い手段として必要な通貨量よりも、多くの通貨が納税で回収されず「過剰」に流通することでインフレが起こるなら、インフレを抑えるためには「過少」な徴税を是正するための増税が必要となるだろう。この点は、インフレ・コントロール中央銀行国債と通貨の量を振り替えることで調節すると考えている主流の経済学とは一線を画している。インフレ率が高かった70年代くらいのアメリカの徴税能力が不十分だったのかはよく分からないが、この頃その徴税能力とは別に、政府が将来に亘って十分に徴税で通貨を回収しないと予想されたのかもしれない。しかし、このような考えはまだ主流とは言えないが、財政物価水準理論(FTPL)で同様にノン・リカーディアン・レジームとしてMMTよりずっと精緻に議論されるており、最近では決して目新しいものではない。また、ヘリコプター・マネーは政府が国債発行によってファイナンスされた財政支出が、徴税によって償還されないことを信用させようとするものである。いずれにしてもケルトン教授は、必要以上にお金を使ってしまうことがインフレを起こす要因として、徴税は民間がお金を使うことを抑制するものと考えているようであるが、政府や議会が税制改正で(通貨量を調節し)速やかにインフレを調整するのは容易にできるとする根拠はそれほど自明とは思えない。 

・インフレがないならクラウディング・アウトは問題ないか?

 財政破綻しないからいくら財政支出をして良いとは、MMTも言ってはいない。しかし、MMTケルトン教授は代わりに、インフレにならない限り財政支出の増加に問題はないとする。これはクラウディング・アウト(締め出し効果)や資源制約と関係している。利用可能な資源が有限であれば、財政支出によってある資源が使われれば、民間の利用可能分は減る。民間の資源への需要が減る一つのルートはその価格の上昇によるものであるが、インフレが起こらない限り、民間の資源の利用は締め出されていないと考えて良いだろうか?ケルトン教授は通貨価値自体が下落するインフレは起こらない(あるいは税制で制御できる)と考えている一方、コスト・プッシュ・インフレによる物価指数の上昇をむしろ懸念しているようであり、記者会見では物価指数のどの物価項目が上昇したか見極めて個別の項目毎に何等かの対処をすべきと述べている。例えば、賃金に関しては以下のように、フィリップス曲線を前提としているようである。ただし、それにはまず、各財項目の価格弾力性にもよることであるが、物価統計の正確さや統計調査における物価変動の認識の遅れ、更には行政の物価上昇の認識や政策決定までに掛かる時間もある。税制の変更もそうであるが、政府による意思決定によって個々の財市場や産業毎の物価上昇にどれくらい速やかにかつ適正な対処ができると考えているのだろうか?

 また有限な資源は、その時だけの利用を考えればよいわけではなく、それ以降の将来における利用も考える必要があり、資源の有効利用を物価や一時的な価格上昇だけで判断するのは無理があると言わざるを得ない。(政府の使い過ぎに関する)極端な例を挙げるなら、自然環境を開発しても、そもそもその市場は存在しないのでその価格の変動は起こりえないが、一度開発されてしまった自然環境が将来的に貴重なものとなっても、元に戻すのはほぼ不可能となる。一方、例外として労働は使う使わないに拘わらず時間と伴に失われる(ただし、使われなければ労働者の余暇としての価値が得られるかもしれない)。このためか、MMTケルトン教授らが重視する財政政策はJGPと呼ばれる、政府が直接雇用に介入する政策であるが、その詳細がどのようなものかについて発言した報道はみられなかった。一体、政府が労働者をどのように選別して、何をさせようとするのだろうか?JGPが単なる給付より優れた点はどのようなものなのか?今回の来日では明らかではない。

 ケルトン教授は記者会見で、日本の低失業率の日本でもJGPが必要なのか?と問われ、二年前のアメリカと似ており、完全失業率は考えられているより(あるいは統計に表れるより)もっと低いような状況なのではないか、と答えている(やってみても良いということだろうか)。(恐らく日本の人口動態や労働状況のことはあまり知らないのではないかと勘繰ったが、しかしそれ自体は無理からぬことだ。)確かに完全失業率を正確に知り得ることはできないが、一方で民間の資源の利用が制限されないインフレ率や統計上の誤差や遅れなど、同様の不確実性はMMTの財政政策が依拠するインフレ率にもある。労働をどのように利用し、労働者をどのようなタイミングで解雇するのか、政府がどのような基準で決めるのかも明らかではない。景気が良くなれば、JGPでの契約を解除して解雇しても、その時は民間で十分に雇用されると主張するかもしれないが、日本のような雇用慣行で、そのような政策を実行することが容易とは思わない。(ただし、私は政府が労働市場に介入すること全てに反対しているわけではない。例えば、就職氷河期を経験した30~40代で、正規雇用経験があまり多くない人材を正規雇用した場合に、10年間その賃金報酬の3割を補助する、というような政策であれば賛成である。)

・どうして低金利か?

 ケルトン教授は日本でも金利上昇が起こっていないのでクラウディング・アウト起きていないと述べている。しかし、金利上昇によるクラウディング・アウトは、賃金と物価が硬直的と仮定されるオールド・ケインジアン・モデル(IS・LM曲線分析)のような特殊な場合で強調されているだけである。そこでは資源制約の影響が現れるのは金利上昇によるしかないからである。しかし、IS・LM曲線分析はミクロ的基礎が欠如しているので、今では学術的な分析に用いられることはかなり少なくなっている。例えば、IS曲線は右下がりなので、金融緩和によって生産が増加しても、IS曲線がシフトしない限り金利は下がりっぱなしになるが、これでは景気回復と伴に金利も上昇する現実を説明するのは難しい。

 また、金利中央銀行が短期的にコントロールできても長期的に(実質金利を)コントロールするのは難しい。ケルトン教授は、日本の国債残高が累積しても金利が上がらないことは、MMTの正しさの証明とも言っている。しかし、日本の国債残高は比較的長い年月をかけて積み上がったものである。長期的には金利水準をコントロールできそうにないし、更にストックではなく、むしろフローが実質金利を決めると考えることもできる。つまり、日本が毎年の政府の赤字に対しても民間部門の貯蓄が大きいことが低(実質)金利の要因とも考えられる。実際、日本は現段階でも経常収支は黒字を保っており、依然として海外に貯蓄を供給している。フローを考えれば、民間部門が貯蓄して黒字となる場合、海外か政府部門は赤字になる。ケルトン教授は、財政支出が民間貯蓄を創出するというようなことを述べているが、重要なことは財政赤字が民間貯蓄を増やすとしても、国内の全体の貯蓄・投資バランスの貯蓄超過は減るだろうということであり、この区別がついていない可能性がある

 貯蓄は将来支出するためにするものであり、いずれ誰かの黒字に対応して赤字となった主体は、将来必ず黒字にして返済する必要がある。この基本原則を政府が免れるとしたら、民間部門はその貯蓄を将来の支出に転換することができない(国債デフォルトなりインフレーションによって)ということで負担が生じる筈である。日本や世界的に名目金利が趨勢的に低下しているのは、インフレが起きていないからである。通貨発行がいくら増えてもインフレにならないのでMMTが正しいなら、それは人々がいずれ増税されると予想しているからであろう。この場合、財政支出が(100%のリカード効果が起こらないとしても)ある程度消費を抑制することは理論的にありえる。ケルトン教授の言う通り徴税が支出を抑制するなら、財政支出の増加分が結局は将来の増税を予想させれば、仮に今増税されなくてもこの予想によって支出が抑制されるのではなかろうか?

・インフレがない限り財政支出に費用はないか?

  以上のように、財政支出(赤字)が何らかの理由で民間の支出を抑制する場合も、財政支出増加がインフレを起こさない可能性がある。また、財政支出に伴って発行された通貨は、既に述べたように全て徴税によって回収される必要はないが、通貨の保有し続けること自体も、誰かしらの購買力が使われないままであるという意味では負担なのである。例えば、誰かにお金を貸す際に、いつ返すかあるいは返すか返さないかさえ借り手が決めてよく、結局貸したお金がいつまでも返ってこないとすれば、それは借り手の支出を貸し手が負担したことになる。通貨を保有し続けるのはこれと同様のことだからである。

 以上のように、たとえインフレが起こらなくても、民間が利用可能な資源が減ることで財政支出には民間の負担が生じる。このため伝統的な経済学では、財政支出は費用便益あるいは費用対効果などと呼ばれる原則によっている。つまり、財政資金の使用には、様々な(社会的な)便益と費用を比較して実施すべきということに尽きる。この社会的な便益には、失業者に仕事を与えることは含まれて然るべきである。この原則に対し、これまでの経験から、政府が財政資金を便益や費用を正確に計算し、政治的で意図で歪められないという保証はないのではないか?というのは真っ当な疑問である。あるいは政府は財政支出について、費用対効果など真面目に計算などしていないかもしれない。しかし、そのような財政支出上の問題が大きいというのであれば、費用対効果の推計に基づいて財政政策を決める原則以上に、インフレ率が起こらない限り財政支出を増やしてよいという原則など到底受け入れられるものではないだろう。

 ・財政政策で成長でき、金融政策は無効か?

  デフレ・ギャップがある場合、財政支出によって生産は増加する。(ただし、財政支出をし続けないと再びギャップが生じる可能性は高い。)ケルトン教授は、財政で完全雇用を達成すれば更なる経済成長が可能と述べているが、その根拠は全く不明である。財政政策で人々の所得と自信を向上させられると述べているようであるが、そういうものだろうか?(そもそ自信(コンフィデンス)とは何なのか?)。完全雇用に達してギャップが埋まれば、サプライ・サイドの成長が必要であるが、財政支出のサプライ・サイドへの影響はほとんど語られてはいない。

 ケルトン教授は、アベノミクスやリフレ政策について、不況期では金利を下げても支出は増えないとして、金融政策に過度に依存すべきではないとしている。しかし実際には、アベノミクスが始まる前からゼロ金利政策であり、長期金利は下がったとはいえ、当初から1%を切っていた。つまり、6年間で長期金利がせいぜい1%程度下がっただけである。元々、リフレ派への日本の主流経済学者からの批判は、量的緩和インフレ目標でもインフレ期待が起こる保証はなく、その結果実質金利は下がらないだろう、というものであった。つまり、リフレ派は(実質)金利を下げるに失敗したのであり、量的緩和などを止めてマイナス金利深堀りをすべきなのだ。単に緩和そのものに失敗したのだから、(実質)金利が下がっていないのに金融緩和効果はなかったということはできない

 金利に関して、記者会見でケルトン教授は利子率を上げた方がインフレになる可能性を示唆した。この根拠として考えられるのは資金の貸し手の所得効果である。(ケルトン教授自身はそれを意図してはいないかもしれないが、金利が上昇した場合に政府の利払いが増えてプライマリー・バランスが悪化することでインフレが起こる可能性がFTPLに基づくとあるが、MMTでも同様であろう。)

 金利低下の効果は、それによって資金の借り手が増え支出を増やすという代替効果であり、金融政策によって金利が低下する場合、民間部門に資金の出し手の減少を補完するのが中央銀行である。ケルトン教授は少なくても完全雇用が達成されている場合とも言っているので、差し当たり代替効果を無視して、貸し手と借り手の資金は金利の変化に対して一定としてしよう。この場合、金利が上昇すれば、資金の貸し手の所得が増え、この所得の増加によって支出を増やすということのようだ。しかし、これは一方の側しかみていない議論であり、資金の借り手の負の所得効果が相殺することを無視している。逆に金利がゼロよりもマイナスに低下した場合、資金の借り手に正の所得効果が生じる。資金の借り手側、貸し手側、どちらの所得効果あるいは所得に対する支出性向が大きいだろうか?私には借り手の所得効果の方が大きいと思う。

 更に代替効果が加われば、更に金利低下は支出を増加させる。ゼロ金利で十分な投資などの支出が増えないことから、マイナス金利を深堀りしても効果がないと言うことはできない。例えば、現在は需要の増加が見込めないので、金利をいくら下げても投資需要は出てこないと信じている人もいるが、企業の設備投資は能力拡大型だけでなく、費用削減に繋がる投資も多いものだ。費用削減に成功すれば、売り上げが伸びなくても利益を増やすことができる。費用削減としても、人件費のすなわち労働の省力化が大きいが、むしろ人手不足が心配される昨今であれば、そのような投資は大いに行われるべきである。仮に企業が投資をふやさなくても、先に述べたように借り手の所得効果が貸し手のそれより大きければ需要は増えるのである。経済が好転すればいずれ金利は、生産性や資本収益の改善を通じて上昇する。財政赤字によって財政支出を増やしても長年金利が上がらないのはMMTの正しさではなく、財政では生産性を上げられない証拠である可能性すらある。

 金融政策あるいは中央銀行は今後、インフレ抑制の使命は徐々に低下していくかもしれない。しかし、そうであっても、マクロ安定化政策としての金融政策や中央銀行は依然として重要であり続けるだろう。以上のように、金利低下は需給ギャップを(物価とは無関係に)埋めることができる。更には金利低下が投資を促進するならば、経済の停滞によって遅れる資本蓄積を、本来の状態に戻すことを後押しする。サプライ・サイドの成長は、技術進歩とそれをサポートする民間の投資が重要である。サプライ・サイドの成長が公共投資JGPで主導できると考える根拠は不明である。

・政府がまず最初に通貨を発行することは重要か?

 これは、MMTは政府が最初に通貨発行するにはまず財政支出が必要であることを強調していることと関係する。それに対して通常の経済学はこの点はほとんど無視されるが、その理由はそのような順序は殆ど本質的ではないからだ。もちろん、通貨(現金及び準備預金)の発行権は政府にあるので、政府が通貨を何らかの手段で発行しなければ市中に流通するのは当然だが、そのため通貨の発行では政府の支払いから始まる必要があるように思えるかもしれない。しかし、これは不可欠なことではなく論理的には、政府は納税のための資金(通貨)をまず民間に貸し付けてそれを納税させてもよい。また、まず政府が現金をばら撒いてもよいが、それは非合理なので政府が何らか(労働などを含む)の購買の支払いに通貨を使って、その後にそれらを納税させることになる。通常の経済理論では財政支出と通貨発行の順序などが重要となることは殆どないが、それはこのように(財政支出に伴う)通貨発行と納税の順序は、何ら本質的な問題をもたらさないからである。

 民間銀行の信用創造では、現実にはMMTが主張するように銀行が保有現金を貸し出すわけではないが、現金を貸し出しても殆ど同様の信用創造の議論は成立するのでこの違いは本質ではない。伝統的な経済学でよく見られる、民間銀行の発行する通貨を含むマネーストックと政府発行通貨であるマネタリーベースの比率である信用乗数が一定のような説明は、あくまでも説明上の便宜であり現実がそうだと主張しているわけではない。よく読めば(行間かもしれないが)それらは全く本質ではないことが分かる。最近増加しているMMT支持者が、このような多少の現実性からMMTが優れた考えと思うなら、それは全く間違いである。

・まとめ

 ケルトン教授が来日して語ったことで私が何か考えを変える必要に迫られるようなことは何もなかった。MMTの金融やインフレに関する議論はもはや目新しいものではなく、主流とは言えないまでもFTPLなどでより精緻に議論されている。財政赤字が増えてもインフレにならないという根拠は、MMTに基づいて考えても、通貨価値が保たれるのは徴税によるのであり、今増税しなくても良いがいずれは増税されると人々が信じていることによる。MMT財政支出の費用や負担がないことを正当化していると考える人がいれば、それは間違いである(そう考える人は何故そうなのか論理的に説明を試みればよい)。財政支出によってインフレにならないとしても、労働を含め政府が資源を利用することは民間が利用できなくなることに代わりはない。

 MMTに最も違和感を感じるのは、インフレにならない限り財政支出を拡大しても問題はない、と考えるところである。伝統的に経済学によれば、財政支出には案件毎に費用対効果を考えるべきである。私は原則として均衡財政でなければならない、と書いてある経済学の教科書を読んだことはない。従って、経済学が均衡財政主義を主張していると批判するのは間違いであろう。ケルトン教授はIMFなどが均衡財政を推奨することを批判している。しかし、ある程度の財政規律が実際問題として必要な理由も存在する。例えば、多くの国では財政ファイナンス、つまり財政支出国債償還のために、中央銀行が次々と国債を引き受けて通貨を発行することは禁じられている。この制度を前提とした場合、国債が償還できなくなれば、政府が負債をロール・オーバーできなくなり、その結果維持できない財政支出が発生するかもしれない。その場合、財政支出の恩恵を受けるのは、社会的弱者である可能性が高い。あるいはその時増税されることで、世代間の不公平をもたらす。そうならないために、ある程度の財政規律を維持することは、社会の公正性の観点から必要である。このことは、財政には本来、公共財の供給に加え、格差を是正するような所得再分配機能が重要であることをよく示している。

 それに対して、ケインズ以来、財政は景気対策にも使われてきたが、それが失業を多少減らす以外大きな成果があったとは思えない。インフレが起こらなければ、例えば増税をしつつ失業者がいる限り政府が雇い続けることが最良の政策に成り得るだろうか?また、日本ではむしろ人手不足が心配されるようになっており、失業を利用とする財政政策を増やすのを正当化することは難しい。ケルトン教授のようなMMTを支持するなら、JGPを主張すべきであり、MMTを持ち出しつつ公共事業をやるべきと訴える人達は、せいぜい自分に都合のいいようにMMTを利用しているようにも思えてくる。財政による景気対策は望ましくない。景気対策が必要ならば、金融政策をやればよい。ゼロ金利でも景気が回復しないなら、マイナス金利深堀りを試すべきなのだ。

雇用の「増加」は金融政策の効果か、それとも人口動態の影響か?

注:2020年9月に表6に生産性を加え加筆した。

 

 最近は以前に比べて雇用の心配が減り、むしろ人手不足と言われ外国人労働者の導入まで議論されるようになった。この雇用状況の改善には黒田総裁以降の2013年に始まる金融政策(異次元緩和)の効果という主張が多く見られる。しかし、失業率や有効求人倍率は明らかに異次元緩和以前の2010年から既に改善している。それに対して、就業者数のような数量的な指標が2013年頃から改善しており、これは2010年から失業率だけが低下したのとは異なる、というのが金融政策効果論の根拠となっているようだ。しかし、それは金融政策の雇用への波及を直接示したものではなく、雇用は金融政策上の関心事であっても、金融政策の雇用への波及効果を検討してみれば、むしろ金融政策で雇用が改善したと結論付けることは難しい。

 金融政策が雇用まで波及するにはある程度時間がかかる。金融緩和の中央銀行のアクションから(予想実質)金利などの低下が速やかに起こっても、企業がその緩和効果を確信してから投資などを増やすことで需要が増え、それに対応した生産の増加することで雇用が増えるまでには時間が必要だ。このように緩和策発動後の今日明日で雇用は増えないので、2013年頃(恐らく2012年半ば)からの就業者数増加のような雇用の改善が、金融緩和によって企業の投資や雇用増加の意思決定を経てもたらされたなら、少なくともその1年位前の2012年までには金融緩和策が発動されていないと辻褄は合わないのである。

 では一体何故、2013年から就業者数が増えたのか?それは人口動態の変化による影響と考えられる。一つには逆説的であるが少子化や人口減少の影響であり、主に生産年齢のフルタイム労働者が減った分を、パートタイマーのようないわゆる非正規労働者が複数人で埋めた結果が考えられる。実際に内閣府の平成29年の経済財政白書には投入労働時間は増えていないことが報告されている。(「最近の雇用状況について -平成29年度版「経済財政白書」を参考に-」ハフィントンポスト日本版を参照。)更に今回特に注目するのは、団塊世代194749年生まれ)が2007年頃から60歳という退職期を迎えたという特殊な要因によって一時的に雇用が大きく減少し、その回復はリーマンショックや東日本震災と重なって遅れ、最近になってようやく就業者数などが増えたというものである。この論考では、この点をデータによって検証してみる。

 以下の表1は、2008、2013、2018年での就業者数について、総数及び5歳単位での年齢階級別に『労働力調査』から作成している。就業者総数を2008年と2013年で比べれば減少、それから2018年で増加している。年齢階級毎に見てみよう。この場合、ある年齢階級は5年後には次の階級に進むので、その変動が赤と青の矢印で示されている。

          表1 年齢階級別就業者数(万人)

 この表1の就業者の以上のような変動の差をとったのが表2である。例えば表1で2008年に20~24歳の階級の就業者は454万人であったのが、この階級は5年後の2013年には25~29歳の階級となり561万人で、この差が107万人であったことが、表2の08→13の行の20~24の列に記されている。このようにしてみれば人口自体の変動にはあまり影響を受けない一方、人口動態の影響を良く捉えることができる。就業者総数が2008年からの5年(08→13)では減少、2013年から(13→18)では増加していることを反映し、表2でも各年齢階級も2013年から改善されているように見えるが、それらの変動の仕方のおおよその傾向は大きく変わっているようには見えない

          表2 年齢階級別就業者数の変化(万人)

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  若年世代の雇用は2008年から2013年(0813でも減っているわけではない。20~24歳では2008年から107万人、2013年からその後の5年で就業者の増加が一番多くなるが、この年齢層は学生が新卒で採用される場合が多いためであろう。少子化の進行にも拘わらず2013年からの増加の方が大きく、より多くの新卒採用が増えたこと自体は良いことだ。一方、25~29歳の就業者数は、2008年からでは僅かだがマイナスになるなど、それより直上の年齢層と比べてもあまり増えていないのは、新卒者の離職が社会問題化したようなことを反映しているのかもしれない。また、就業者数が減少に転じるのは40歳台後半くらいからのようにみえる。

 更に表2によると、2008年から(0813)と2013年から(1318)の変動を比べ、最も大きく異なるのは、5559歳の階級の変動であり、同階級では2008年から168万人、2013年から74万人5年間で減少した。つまり、2008年からの55~59歳の階級の就業者数の減少は2013年からに比べ約90万人も多く、60~64歳でも30万人以上多く減少している。これは2008年頃に人口自体が多い団塊世代が退職期を迎えたことを反映しているだろう。一方、2013年からは少子高齢化が進んで人手不足に陥るようになり65~69歳の就業者数は大きく増加していることが表1と2で確認できる(ただし、他の階級と違って次の階級は70歳以上なので母集団は大きく変わってしまうことに注意)。

 以上の55~59歳の階級の変動の結果、60~64歳の階級は表1より2013年で577万人、2018年では525万人となった。これに対して(階級)人口当たりの就業率が表3に示されているが、60~64歳の階級の就業率は2013年の58.9%に対し、それより就業者数は少ないにも拘わらず2018年では68.8%と大きく上昇している(また、2008年は就業者数は511万人と2013年より少ないが就業率は57.2%であり、2013年の就業率は特に上昇したわけではない)。つまり、2008年に5559歳の階級の就業者数の減少は、かなりの程度人口自体が多かった(いわゆる団塊世代)ため、彼らが制度上の定年に達したことによるものであったと考えられる。一方、2013年から2018年の55歳以上の階級の就業率の大幅な上昇は、賃金がそれほど上がっていないことと併せれば、生産年齢人口の減少による人手不足のためということが示唆される。 

         表3 年齢階級別就業率(%)

 また、失業率が既に2010年から低下していることに対して、2010年から2013年頃までは労働力人口が減少する「悪い」失業率の低下、2013年以降は労働力人口の増加を伴う「良い」失業率の低下という主張も目にするが、その理由は前半の失業率の低下は、経済の悪化で職探しを諦めた人が多かったためと考えているからのようだ。そう言っている人は、知り合いにそういう理由で職探しを諦めた人が沢山いたのかもしれないが、労働力人口について表2と同じように作成した表4によれば、就業者数とその傾向は殆ど変わっていない。つまり、日本全体では2008年からの5年間は単に団塊世代が非労働力人口へと退いたことによって労働力人口が減ったことが大きく、その多くは(それまでの待遇が落ちるような)再就職を諦めたというより、むしろ退職を最初から予定していた可能性が高い。退職して労働力人口から非労働力人口となる人数を新卒などの新規の労働力人口で補充し切れず、完全失業者からの補充が進めば失業率は低下する。(「雇用指標改善の真相」ハフィントンポスト日本版を参照。)

      表4 年齢階級別労働力人口の変化(万人)

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   正規、非正規雇用問題は何かと話題になるが、表5は正規雇用として正規職員・従業員についての表2、4と同様のもので、この正規雇用の変動は以上とはやや異なっているように見える。新卒を含む20~25歳から55~59歳の階級の変動は就業者数や労働力人口と似ているが、25~29歳の階級の正規雇用の増え方の差は2013年からが特に大きいようである。これがそれまで新卒で非正規でしか採用されなかったような人が、最近になってより多く正規採用されたとすれば大変良いことだ。そしてそれは恐らく、団塊世代の退職の補充が2014年頃からようやく活発化したからだろう。60歳以上の正規雇用の変化は2008年からと2013年からで殆ど差がない(正規雇用の場合、70~75歳の階級のデータが得られるので、就業者数と労働力人口の場合とは異なり65~69歳の階級の変動の母集団と対応する)。団塊世代の大量退職に対し、就業者数と同様に新卒採用が2013年以降から補充が活発化した一方で、2008年からの5年間ではその補充が遅れていたと考えられるが、正規雇用ではこの点をより鮮明にしている。

      表5 正規職員・従業員数の変化(万人)

 2012年に成立した「改正高年齢者雇用安定法」が2013年から施行され、いわゆる定年が60歳から65歳に伸びた。この法律の施行直前は場合によって賃金が高い高齢の労働者を雇い続けることを嫌って早期退職を促す効果があったかもしれない一方、施行後は65歳以上の正規雇用にもプラスである可能性は高い。しかし、2008年からと2013年から60~64歳の正規雇用の変動を比べて差はないので、効果は非正規雇用に転換されるという形で表れているようにみえる。2018年には法改正の過渡期を過ぎるため2013年以降に比べて、今後の60~64歳の階級の正規雇用の減少幅は拡大するかもしれない。

 最後に雇用の変動を生産の推移と対応させておこう。表6には生産と以上の雇用指標が2008年から2018年までの10年間でどのくらい変化したかを示している。生産には内閣府が公表している実質GDP(2011暦年の価格基準、連鎖価格でデフレート、2018年は第二次速報値による)を使用した。この10年間で見れば、生産(実質GDP)は約7%増えたが、それに対して就業者は約4%、正規雇用は約2%しか増えていない(生産に比べて増えない正規雇用に対して非正規がより増えている)。2008年と2013年からの5年間毎の変化に分けて見れば、生産(実質GDP)は前半5年で約2%、後半で更にその約5%増えている。2008年からの生産の増加が小さいのは、リーマンショックの影響が大きく、2008年の後半から生産は減少に転じ、2009年は更に大きく生産が減少したことを反映している。そして、ちょうどそのころ団塊世代の退職期と重なり、企業は雇用のリストラを加速させたと考えられる。2010年から生産は回復し始めるが、企業が慎重姿勢であれば雇用の回復(補充)は遅れるだろう。また、2011年には東日本大震災も起きたので、雇用の回復が遅れるのは尚更だっただろう。このように、雇用指標が2008年からの5年間で1を下回ったのは、団塊世代の退職による減少を十分には補充をしなかったと考えられる

          表6 生産と雇用の変化

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  生産性=実質GDP÷就業者数

  生産は2013年にはリーマンショック前の水準を回復し、また2013年頃から就業者や正規雇用が生産の増加以上に増加している。これはその前の5年間で減った雇用の補充がこの5年間でようやく追ついてきた結果と考えられる。特に正規雇用の増加は2013年以降大きいように見えるが、恐らくそれは2008年からの5年の正規雇用の減少が大きかったことの反動であり、その回復が始まるのは遅く2014年からである。2013年からの5年間で生産は安定的に推移するが、その増加は約5%でこれは実質成長の年率平均でみれば1%以下であったことになり、リーマンショック以前より成長が加速したようには見えない。このことも2013年からの異次元緩和が生産に効果的で雇用の増加を加速させたことに疑問を投げかけている。そして、それは2013年からの5年の生産性(実質GDP/就業者)の低下に現れている。ただし、これは就業者数を基準としているので、投入労働時間を基準とすれば違ってくるかもしれない。

 政権交代を区切りに時系列データを見るのはある意味自然なことかもしれないが、それが経済の変化を適切に捉える保証は全くない。2012年頃からの就業者数の増加が政策の効果なら、2010年から2013年頃までの生産の回復が大きかったのは当時の政策効果かもしれない。しかし実際は、2010年から2013年頃まで生産の回復は政策効果というより、一度減った分の自律的な回復であった可能性が高い。そして、これに同意できるなら、そもそも生産に対し遅行することが知られている雇用についても、2012年頃からの就業者数の増加の多くは、そのかなりの部分が一度減らした雇用を企業が自律的に回復させたのに過ぎない、と考えることにも同意できるはずである。表6の2008年からの5年の生産性の上昇と2013年からの5年の生産性の低下はこれを裏付けていると言える。

 雇用の改善が金融政策によると主張する人は、人口動態の影響をまるで無視しているかのようだが(その理由は雇用数の増加のよう)、雇用は生産に派生して需要されるものであり、事実として以前と比べ金融政策が生産の成長トレンドを上向かせてはいない一方で人口動態の変化は進んでおり、これらの事実を無視して雇用を語るのは不自然だ。もちろん、2013年からの異次元緩和に何も効果がなかったというわけではない。異次元緩和の量的緩和プログラムは長期金利を押し下げる効果が多少はあり、その分の緩和効果はあっただろう。しかし、それは経済成長のスピードをそれ以前より押し上げるには全く力不足であり、雇用の改善の主因とは考えられない。

 このように言うと金融政策無効論を主張しているように思われるかもしれないが、そうではない。効果が疑問なのは2013年から始まった異次元緩和と称された緩和パッケージについてであり、特にそれが雇用を増やしたということに対してである。最近では、MMT論者など財政支出による景気回復を求める意見が強まっているようであるが、正しい金融緩和が実施される限り財政による景気浮揚策は必要ない。それどころか財政支出は民間の支出に利用される資源と競合し、金融政策の効果を減殺しかねない。人手不足となっている現在は特にその心配は強く、生産性の向上が現状で強く求められている。生産性をより向上させるのは財政支出より、金融緩和によって促進される民間投資の方が効果は大きいと考えられるからである。生産性が向上すれば、それを反映して賃金が上がり、それによって恒常所得の増加が見込まれ消費も増加する。今でも必要なマクロ政策は財政の拡大ではなく金融政策であり、正しい金融政策とはマイナス金利深堀りである(「マイナス金利政策は何故次世代の金融緩和なのか」ハフィントンポスト日本版を参照)。既に財政政策は何度も試みられているが、マイナス金利深堀りは世界のどこも実施してはいない。やってみる価値はあるだろう。