政府の赤字は民間の黒字だからこそ、政府の赤字は小さくあるべき理由

 海外を無視して国内に限定すれば、国内の政府が金融的に赤字なら民間が黒字であるのは、あまりに当たり前のことであり、本来取り立てて騒ぐことではない。黒字や赤字は、収支における正負を言い換えているに過ぎない(収支がマイナスの場合に赤字で書いたことによるらしい)が、政府が赤字の時に民間が黒字になるのは、誰かが支出をしていれば(赤字)、必ずそれを受け取って収入にする(黒字)人がいるからである。ハッシュタグ(#)まで付けて、それで何かを言わんとするのを見かけることがあるが、その主張自体は政府が赤字なら民間は黒字という関係に直接関わっているものは殆どない。もしそういう主張が、政府が赤字なら民間が黒字となる事と関係があるとしてやっているなら、それは思い込みでしかないだろう。

 政府が赤字なら民間が黒字となることを強調する人達は、恐らく明確には認識してはいないだろうが、大抵の場合収支の対象となる取引は、ある範囲に限定されている事が殆どである(実行されたありとあらゆる取引の収支を考えることもできなくはない)。しかし、どのような取引に限定しているかは、大抵は明示されない。最初に「金融的」と断ったのは、そういう理由からである。例えば三面等価の原則では、最終支出に関わる収支に限定されている(この最終支出がどのようなものか、理解している人は案外少ないように感じる)。その結果としてGDPの金額は、中間取引や中古品取引、金融上の取引が含まれない取引額(付加価値とはそういうもの)ということになる。金融的な収支は、このようなマクロ的な収支と整合的である。

 更に、政府が赤字なら民間が黒字となることを強調する人達は恐らく、黒字は赤字より良い、という思い込みによることも多いように思える。この思い込みは、企業会計の赤字が黒字に比べれば良いことではないことから想起されていると邪推する。企業会計の対象とする取引は、企業の生産に関わる(ただし長期的な投資は除かれている)取引上のものだけであり、より限定されたものだ。つまり、企業会計の赤字は生産に対する(短期的)費用が、売り上げで回収できていないことを意味し、そのような赤字を続けていけば企業は存続が危ぶまれるので、あまり良い事とは考えられないのである。しかし、企業会計上の赤字と金融的な赤字とは別物である。

 金融的に黒字であるとは、金融取引において発生する、将来資金を受け取る約束上の権利が増えることを意味する。政府が赤字なら民間が黒字となることが良いものであるという思い込みは、せいぜいこの程度までの認識に留まり、上記のような権利は現在の資金を提供する見返りによって得られるもの、ということまでには考えが及んでいないように思う。金融取引は、現在の資金を提供する側と調達する側との、真逆な関係の相手どうしで成立する。現在の資金を調達する(赤字)側は、その資金を何かに使う目的があり、資金を提供する(黒字)側の犠牲により資金が得られれば目的を達成する。そして、調達(赤字)側に将来資金を支払う義務が残る一方、現在の資金を提供した(黒字)側は、それによって獲得した将来資金が支払われる約束が履行され、そのように支払われた資金を使うまで当初の犠牲を取り戻すことはできない。従って、債務が履行されるまでは心配が尽きないように、金融取引上のリスクは黒字側が被るものなのである。大胆に言えば、(金銭上)「勝っている」状態にあるのは赤字側であり、黒字側は「負けている」。一般的には黒字側が返済を受けて資金を自由に使って赤字になってようやく両者の金銭的な勝ち負けは「トントン」となる。つまり、金融の世界は本質的にはゼロサムであり、経済的豊かさは実体面(リアル)からのみ生み出されるものなのである。

 政府の赤字が膨らめば膨らむほど、民間の「負け」状態は大きくなっていく。しかし、政府自体が付加価値を生んで返済することがなければ、一般の場合とは異なり納税の義務によって国民は自ら支払うことになるので、金銭的には負けっぱなしにしかならない国債を買うのは支出するのと本質的に変わらず、支出は赤字となる事である。ただし、支出の中身を決めるのは自分ではなく政府)。つまり、政府が赤字(というより支出)を出した段階で、金銭的に「負け」は確定するので、この意味で財政赤字は無駄に大きくすべきではない(この事情は国債をマネタイズしても変わらない)。政府は滅多なことではこの「負け」を、債務不履行国債保有者だけに押し付けることはしないが、徴税ではなく通貨発行に依存し続ければ、インフレという必ずしも必要ではない余計な経済的混乱を伴いながら、国民全体に亘って「負け」あるいは負担が確定していくことになるだろう。政府の支出の中身を別として、このように国民が政府に対して金銭的な「負け」をトントンに戻す方法はないが、税であれ国債や通貨発行によって資金調達される場合であれ、それでも政府の支出によって国民が幸福になるには、その金銭的負担(負け)以上に、支出によってリアルな経済でどれだけ国民を幸せにできるか、に懸っている。つまり、全ては政府のお金の使い方の問題なのである。

 金銭的には勝つことのない国民に、政府がお金を給付するという使い方で、金銭的にトントンとしても殆ど意味はない。それは一万円を支払うことで一万円をもらうような事に過ぎないのである。給付に意味があるとすれば、財政資金が真に恵まれない人に給付され、そしてそうすることが社会として重要であると、国民が合意するような場合である。従って、政府がお金を一律に撒くような使い方で赤字を膨らませるのは、やらない方が絶対にいい。黒字は赤字より良いという思い込みは、お金持ちを羨むのに似ている。お金のある人が羨ましく思えるのは、そのお金が使えることしか考えておらず、そのお金を獲得するのに苦労が必要なら、その苦労が計算に入ってはいないからであろう。穿って見た私の耳には、政府が赤字なら民間が黒字、と言って、何やら言ってるのは、その本心は経済の発展のためというより自己の損得、あるいは自分は働くことなく(犠牲を払うことなく)、金をよこせと要求しているように聞こえてしまうのだが…?