物価目標協定の行方は?

 日本で内閣府財務省日本銀行の間で物価目標の政策協定が結ばれてから間もなく10年になる。物価目標協定は、行政府(政権)と中央銀行の間で物価について何らかの約束をするものだが、しかしそうすることで、どのような効果があると考えられているのか?あまり明らかではないのではないか。例えば、中央銀行が独自に物価目標を設定して宣言するのと、政府と協定するのと、どのような違いがあるだろうか?以上のような意味での協定なのかどうか、詳しくは知らないが、ニュージーランドやカナダでインフレ目標が採用された。それらは、それまでの比較的高いインフレを封じ込める目的があり、導入以降インフレは収まっている(ただし、目標導入とインフレとの関係はそれ程明らかではないかもしれない)。これらの国の物価目標の意味の一つは、物価が目標の範囲を超えた場合、中央銀行に説明責任を求めるという事があるが、学術的には場合によって中央銀行総裁を更迭するなどの罰則も議論されている。

 政府と中央銀行の間で政策協定を結ぶのは、政府に何かメリットがあってのことだろうが、一応ここでは政府に邪心はなく、社会的に真っ当な理由がある事を前提とする。

前提⓪:例えば2%程度の物価上昇は、社会的に望ましい。

 それ以外に前提となることには何があるだろうか?政府と中央銀行が物価目標の政策協定を結ぶ場合、中央銀行に目標達成が要請される。つまり、中央銀行は物価目標の達成を約束させられるわけだが、これには中央銀行が何らかの行動を取ることで、物価に比較的強い影響を及ぼす事ができなければ意味がないだろう。

前提①:中央銀行には、物価目標に対して有効な手段を持っている。

中央銀行が物価に対する有効な手段を持っていても、それを行使するかどうか選択の余地がある。

前提②:中央銀行は物価目標に対して有効な手段を意図的に取らない可能性がある。

 以上の前提のどれか一つでも満たされなければ、政策協定を結ぶことに意味があるか疑わしくなる。物価目標が社会的に見て望ましいもの(前提⓪)ではなければ、そもそも意味がないのは明らかだろう。中央銀行が物価を達成するのに有効な手段がなければ(前提①)、それを約束させるのは意味がなく、せいぜい雨乞いの儀式のようなものである。(ただし、雨は比較的高い頻度で降るため、雨乞いと降雨の関係はあやふやになって儀式が存続してしまうことは起こり得る。そういう不合理を防ぐために科学、学術の発展が必要であり、専門家の説明責任が問われる事になる。)目標の未達が続いた場合に前提②は特に重要だろう。目標の未達が続けば、前提①が正しくないか、正しいなら中央銀行がサボっているか、あるいは余程の不測の事態の発生によるだろう。もし前提②が正しくなければ、つまり中央銀行がサボることがあり得なければ、前提①が疑わしい事になる。また、前提①が正しく中央銀行がサボることがなければ、政府と協定を結ばなくても、中央銀行が独自に物価目標を宣言するだけで目標は達成されるだろう。そのため、協定に何らかの意味を見出すなら、それは政府(行政)側が何かのアクションを起こすことかもしれない。つまり、以上の前提全てが正しいとすれば、目標が長い間未達であるような場合には、政府からのアクションが取られることで中央銀行の行動が是正される事に、協定の意味があるように思われる。(雨乞いしても雨が一向に降らない場合、原始的な村の住人が儀式の司祭に何をするか想像するのはちょっと怖い。)このような政策協定は、広い意味で政府による金融政策への介入スキームだろう。罰則としては、政府が公式に中央銀行に目標未達を批判するだけでもその行動が改められるなら、それで十分かもしれないが。

 しかし、以上の前提全てが正しく、政府の未達での中央銀行への罰則が十分なものならば、つまり罰則を中央銀行が回避したいと考えるならば、中央銀行は必ず正しい行動を取る筈である。そう考えれば、政策協定の本質的な問題は中央銀行のコミットメントにあると言えよう。ゼロ金利下での中央銀行のコミットメントには、ポール・クルーグマンが1998年の著名な論文で提唱したようなフォーワード・ガイダンスがある。クルーグマンの提唱では、財政政策によって景気が回復し、将来物価が上昇した場合にも、中央銀行はたとえその時には物価上昇を抑制した方がよくても、敢て金利を上げず放置することを約束する。それによって人々が将来物価上昇を確信することによって、更に景気回復を加速させるできる、というものである。(私がフォーワード・ガイダンスについて解説したもの。)

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この考えでは(罰則は何も考えられていないが)、中央銀行がコミットするのは、(将来)利上げを見送るという自らの行動についてであって物価上昇ではない。物価上昇は中央銀行にとって参照するもので外生的なものに過ぎず、中央銀行が物価を上昇させる手段を持っていること(前提①)は想定されてはいない(ゼロ金利に達してしまっているから)。言わば中央銀行はチャンスを待っているような状態である。この意味で、クルーグマンのフォーワード・ガイダンスは、以上の物価目標とは異なるものと考えよいだろう。

 日本での物価目標の問題は、インフレを抑えるのではなく物価上昇を目指すものであったが、長らく未達が続いた。これは以上の前提のどれかが成立していないか、あるいは政府が十分な罰則が用意されていないため日銀がサボったか、(あるいは両方)ということになろう。少なくとも、未達に対して政府が十分な罰則を取らなかったことを否定するのは難しいのではなかろうか?実際に政策協定では、物価目標の達成状況は、経済財政諮問会議で検討される事になっている(私はかなり以前からニュースをピックする某SNSなどで、経済財政諮問会議が目標未達に対し何もしていないことを指摘してきた)。経済財政諮問会議には「金融政策、物価等に関する集中審議」が定期的に設けられており、そこでは会議の議員である日銀総裁が物価目標の到達状況を説明する。最近、(比較的最近就任の)民間議員の一人からも

そもそもアコードについては、経済財政諮問会議が定期的に検証を行うことになっており、今こそ十分な検討が必要

2022年第16回経済財政諮問会議(p.5)。ただし、この回は金融政策、物価等に関する集中審議の回ではない)と指摘している。先日、令和臨調なる団体が、物価目標は長期的目標として柔軟に運用することを提案した事が報道されている。しかしそれでは、単なるスローガンや努力目標に格下げするようなものに映る。(この令和臨調なる団体のメンバーの一人に、先の経済財政諮問会議での発言した議員がいる。このことから同議員の発言の意図は、目標未達の場合の政府側の対処や目標達成の認定などではなく、物価目標の位置付けを検討する程度のことに過ぎないように思われる。)

 以上のような発言の背景には、最近になって物価の指標とされた消費者物価(生鮮食品を除く総合)指数が、目標の2%を超え形式的にはようやく目標が達成されたことがあったのかもしれないが、直近の経済財政諮問会議の金融政策、物価等に関する集中審議(2023年第2回経済財政諮問会議)でも、目標が達成したからどうするという議論もなかったようだ。黒田総裁からはむしろ、前月の日銀金融政策決定会合長期金利の上昇を容認したことから、イールド・カーブ・コントロール(YCC)の現状について説明があった。コントロールする10年債の金利だけを低位に保っても意味がないからか、10年債金利の上昇を容認しつつその周辺の期間の金利を抑制しようとしたようだ。(私には今の段階で利上げすべきとまでは判断できないが、利上げにならずにイールドを是正するには、YCCを止めて短期政策金利をマイナスに深掘ることでイールドの水準をコントロールすればよい。)一方、日銀はYCC導入と同時に、フォーワード・ガイダンスのようなオーバーシュート・コミットメントも導入していた。

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物価目標と関係あるのは、むしろオーバーシュート・コミットメントの方だと思うが、それをその集中審議で説明したかどうかは分からない。もっともフォーワード・ガイダンスについてクルーグマン自身が難しいと認めているように、将来の行動を約束することで物価予想を変え、それで現在の物価を動かす、というのは難しいようだ(実際日銀は長期金利の若干の上昇を容認してしまった)。

 最近になって物価目標が達成されても、日銀側は輸入物価上昇が収まるので2023年には物価上昇は収束するとの見方(物価の推移について)を示し、恐らくそれが会議でも認められたと思われる(というか完全に判断が丸投げされているかのよう)。物価目標導入時のエピソードとして、当時の白川総裁は最近になってメディアに、政府から2年以内での達成を約束するよう迫られたことを明かしているが、結局そのような年限は協定には入らなかった。それでも2年では達成しなかったので、白川さんもそこまでの任期はなかったのだから、いっそのこと年限を入れるのを承諾してしまえば、政府がどう対応したかは興味深い。もっとも2年で達成できなければ辞めると啖呵を切った当時の副総裁の一人も任期満了まで務めたわけで、恐らく経済財政諮問会議でも同じように何もしなかったのではないかと思う(ただし、メディアでは未達はもっと騒がれただろう)。結局のところ、罰則をどうするかなど、未達が続く場合について全く想定されていなかったかもしれないが、目標達成状況を検討する側にも然るべき能力が必要だろう。

 物価目標未達に対して政府からの介入がなくても、これまで日銀の執行部や政策委員会がサボったとは思わないので、私は前提①を強く疑っている。しかし、よほどの不測の事態が起きたため未達となり、それに対して日銀は十分な説明責任を果たせば、罰則を逃れることができるかもしれない。日銀は自らの検証でも目標未達の言い訳をしてはいる。(日銀検証についても色々と書いたことがあった。)

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しかし、長きに亘る未達の理由としてこの間の円高やエネルギー価格低下などでは納得いくとは思わない。まして、期待が適応的であったなどと言い出すのは、自らの能力不足を認めていることになり、前提①が成り立っていなかった事になる。日銀政策委員の一人は会見(2021年6月)でのメディアからの質問に対し

物価が基調的に上がっていくのをみていくことしかないかと思っています…ので、例えば、物価の上がるスピードをサポートして加速させるといったツールは、少なくとも私個人では思いつかない状況でして、もしそういったものがあるとすれば、既に行っている

と回答している(p.5)。また、現副総裁の一人は、物価目標の政策協定を長期的な目標に格下げするような意見について、「政策効果が失われる」として反対を表明したようであるが、随分と長く未達でしかもそれが不問であり続けたのに、改めて努力目標とするような事で失われる政策効果とは何か、私には全く理解できない。もっと言えば、日本の物価目標は、ゼロ近辺、場合によってはマイナスであった物価上昇率を2%程度(あるいは若干それ以上)に「安定」させる事であるが、私はそもそもそれで経済的意味があるかどうかも懐疑的である。アメリカや多くの国々で2%のインフレは歴史的に見て低位なものである。日本はせっかくインフレのない状態を手に入れたのに、何故インフレにしようとするのか?最近の物価上昇で、消費者の立場では物価上昇で生活が苦しくなる人が多いことは明らかである。人口減で人手不足となり、物価と景気との関係があまりないとすれば、デフレ脱却などほとんど意味のないことだ。

 以上の3つの前提が成立していないとすれば、わざわざ政府と中央銀行が物価目標を政策目標として結ぶ意味は不明である。穿ってみれば、物価目標の政策協定の導入を推進し、これまでの結果を見てもなお支持を続けるような人達は、ひょっとすると政府と中央銀行が物価目標の政策協定を結べば、何か不思議な力によって目標は達成へと導かれ、あるいは目標が達成されなくても協定を結ばないよりかは、経済が良くなると盲目的に信じているのではないか?とさえ思う。黒田総裁もピーターパン発言と言われる

飛べるかどうかを疑った瞬間に永遠に飛べなくなってしまう、という言葉があります。大切なことは、前向きな姿勢と確信です

とコメントしている(2015年6月の講演)。そんな単なる妄想かせいぜい精神論、根性論のようなことが、現実の経済政策、制度を動かす筈はないと思われるかもしれない。しかし、物価目標導入前には、日銀の物価目標に関する文書について「目途」では曖昧で弱いので「目標」とすべき、というような事が真面目に議論されたようだ。(例えば2012年12月19、20日開催金融政策決定会合議事録(p.110))私にとっては、そのようなな違いはどうでもいいと思うし、文言の変更で物価目標の効果が違ってくるとの考えを理解することはかなり難しい。また、一部から物価目標だけでなく、賃金上昇を加えるべきという考えもあるようだ。しかし、日銀が実質賃金に直接的な影響できる、つまり比較的短期間に賃金に強く影響を持ち得る政策ツールがなければ、政府が日銀に約束させる意味は殆どないだろうし、また賃金が上昇しなかった時に政府は中央銀行に対し何ができるというのだろうか?

 物価目標の見直し論が出るのは、黒田総裁の任期も僅かになったことがあるだろう。結局、黒田総裁の異次元緩和の10年は、終盤はコロナ禍に見舞われたものの、景気回復による形で物価目標を達成せずに終わろうとしている。黒田総裁も正直どうしたらいいのか手詰まりであり、少しでも早く辞めたいというのが本音かもしれない。恐らく副総裁の任期満了に合わせ一ヶ月程早く正副総裁同時に交代になると推測されるが、物価目標だけでなくこれまでの金融政策を方向転換させる良い機会と見られているかもしれない。物価目標を長期的目標、つまり単なる努力目標として格下げしたい理由の一つは、物価目標によって政府が日銀の政策に何らかの介入をするか、少なくとも政策転換などを縛ることが望ましくない場合があるという事になろう。ここでの前提が満たされなければ、政策協定を止めても止めなくても特に問題が生じるとは思わないし、実際にはせいぜい日銀の努力目標のようなものになると邪推する。

 一方、物価目標を政府と中央銀行の間の政策協定として、何か別の意味付けによって別の形に制度化する可能性を排除する必要はない。私の考えでは一つのそのような案として、物価目標の政策協定は、政府の支出の負担を今後どの位徴税等が負担するのか、そしてその残りが結果として物価上昇となって負担することになるのかについて、政府と中央銀行の間で物価目標として合意しているか示す、というものだ。これは物価目標を実現させようとするものではなくあくまでも目安となるが、もしその目安以上のインフレが起きたら、当然政府や日銀は批判されることになる(特に政府は選挙で)。もちろん、インフレを制御するのは難しく経済を混乱に陥れる危険性があるが、重税による負担にも経済活動を歪める危険がある。それには、学術的専門家の説明責任も問われる事にもなるが、どちらでどのくらい財政の負担するかは、国民が選択すべき問題なのだと思う。