日本経済学界の巨星逝く

 小宮隆太郎教授が先月ご逝去されました。哀悼の意を表しますとともに、心からご冥福を祈りたいと思います。

 直接の面識がない私でも、小宮教授から影響を受けていることを断言できます。小宮教授は第一次オイルショック後のインフレに関して、日本銀行の政策運営を批判したことが比較的有名ですが(論文「昭和四十八,九年インフレーションの原因」1976年)、その後も日銀関係者との論争は続きました。この論争に関して「ハイパワードマネーと金融政策 ―日銀流貨幣理論の批判―」(1988年)にまとめられており、日本銀行が現代的な金融政策運営に移行する上で多大な貢献があったのではないかと、私は考えます。

 この他にも、日米貿易摩擦問題などに見られる通説の誤解について論じている「貿易黒字・赤字の経済学 日米摩擦の愚かさ」(1994年)も、私が好きな本の一つで、国際経済ばかりではなく、そのマクロ経済学の知見の確かさに敬服したものです。

 私にとって影響が大きかったのは、小宮教授のリフレ派批判でしょう。リフレ派は当初、ゼロ金利に到達した場合でも、量的緩和国債買いオペ)によるマネタリー・ベースの大量供給とインフレ・ターゲットの設定でインフレ予想を起こすことで、日本銀行は緩和効果を与える余地があると主張していました。それに対して小宮教授は、「金融政策論議の争点: 日銀批判とその反論」(2002年)に収められている「日銀批判の論点の再検討」の中で、

量的緩和』を『インフレーション・ターゲッティングと組み合わせ』て実施したら、人々の持つ『期待インフレ率』が上昇しただろう、と反論するのではなかろうか。ただ、私の考えでは、ファンダメンタルズに実質的に変化がないのに、人々の『予想』を変化させることは容易ではない

と批判しています。また、以上のような施策の効果によるファンダメンタルズの変化を特定するためには、小宮教授が示唆する通り

『ゼロ金利』の状況で『量的緩和』政策が…有効であると主張するのであれば、そのメカニズムをミクロ経済理論と銀行行動の理論に基づいて説明すべき

のように、それを裏付ける理論を提示する必要があったでしょう。これに対する岩田規久男前日銀副総裁の所収論文での当時の反論では、理論を提示することもなく、インフレ期待が起こりさえすれば経済は回復する、ということばかり論じていて、批判に直接応えるものではなく、議論は全く噛み合わないものに見えます。

 私自身は当初、ゼロ金利下でも日本銀行量的緩和などを実施し、景気回復に努めるべきと漠然と考えていました。このような無根拠な思い込みによって、最初に小宮教授のその論文を読んだ時は、よく理解することができませんでした。しかし、そこで書かれていたことは私の頭の隅には残り消えることはなかったようです。そして、暫くして小宮教授の論文を読み返していくうちに、私自身の思い込みから解放されていきました。

 一方、リフレ派はその後も、小宮教授の批判を無視しするかのように、自分達の相変わらずの言説を主張し続けました。「理論に基づいて説明すべき」という批判も、せいぜいワルラス式と称した予算制約式の一群を、自分達の都合のいいように使って説明を試みるのがせいぜいであり、それは均衡解も特定されない、経済理論と呼ぶにはあまりにもお粗末なものに留まっています。

 それから10年余り経って、現実にも2013年から「量的・質的金融緩和」と称される、大量の買いオペによるマネタリー・ベース供給の量的緩和と物価目標が組み合わさった金融緩和プログラムが実行されました。そして小宮教授とリフレ派のどちらが正しかったか、つまりそれでインフレやインフレ予想が起こったかどうか、その結果を見ればもう明らかでしょう。

 日本の経済学者の多くが、量的・質的金融緩和が実施された当初から、その効果に懐疑的だったのは、小宮教授の論文の影響もあるのではないかと私は考えます。リフレ派は、この批判を真摯に受け止めるべきでした。現実を受け止める限り、今では私達はリフレ効果はプラシーボにもならなかったと確信できると思いますが、既に2002年の段階で指摘した小宮教授に驚嘆します。この批判は改めて評価されるべきものではないかと思います。

 私が小宮教授に強い憧れを持つのは、このような経済学に正しく基づいて主張する学術研究者としての姿勢でしょう。それが、たとえ読む人が少なくても、私が経済学的に正しいことが広まって欲しいと願って発信する言動力の一つになっています。かつてリフレを主張した人達を含み、最近になって今度は財政資金を無節操な使用の主張が目立つようになりました。「反緊縮」などという意味不明な言葉を振りかざしているような人達のことです。政治家というのはポピュリズムのものですから、それが国民にウケるとなれば、政策に反映しリフレの二の舞になりかねません。小宮教授はリフレについては、効果が無いと考えていたようなので「微害微益」という評価でした。一方、実際に無節操に財政資金が使われるようになれば、所得分配や資源の利用に歪みを生じさせる可能性があり、より深刻なの場合はその行き着く先はしつこく続くインフレーションとなる事です。そうなれば、「微害微益」では済まないでしょう。私はそうなることを大変心配しており、経済学者として見過ごすことができない気持ちでいます。小宮教授がご健在なら、この風潮についてどんな事を言うか、もちろんそれは知り得ないことですが、私はそのような事を考えながら、自分にできることはしていきたいと思っています。