Udemyで財政問題の講座を開いてみた件

 ここ数年、様々な記事や人々のコメントから、財政政策により注目が集まっているように感じるが、私が大学に入学して以来学んできた経済学の知識と照らすと、違和感持つことが大変多い。ここで、わざわざ大学に入学以来と断っているのは、入門あるいは初歩的(そもそもの話)な範囲のことについてもそうだからだ。そのため、私には今財政問題についても、言いたいことが沢山あるのだけれど、どこかで問題の部分々々に関して、何か言うことはできても、私が真に言うべきことの塊を(発信力の無さを棚上げしても)伝えるのは相当難しそうだ。財政問題について考えておくべき基本的な考え(そもそもというような話)を発信してみたいが、私自身がある程度満足いく内容をまとめるのは結構大変だ。また、聞く方も恐らくそれなりの我慢が必要になると思う。どうせ多くには伝わらないとしても、発信してみなければ始まらない。そのような想いからUdemyさんで財政問題についての講座を開いてみた。

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 経済学者として、財政政策論議に感じる違和感は、しかしながらこれまでにも何度となく経験してきた。このインターネットの時代に、私がこのブログなどで「大人しく」発信し始めたのは、金融政策についてであった。例えば、これまで「デフレが貨幣現象」だから「政府が通貨を増やせば景気は回復する」というような意見が流行った。これは単に流行っただけでなく、黒田さんが日銀総裁に代わってからの異次元緩和と呼ばれる政策に、大量の国債買いオペによるマネタリーベース供給が採用されたのも、以上の考えを反映したものと、私は憶測している。デフレ(物価下落)とは、モノの価値を通貨単位で測り、それが低下することだから、確かに「貨幣現象」と言ってよいだろう。しかし考えてみて欲しい。だから通貨を増やせば景気が回復する、とするのは論理の飛躍である。それに対して、何故?と思うのは大事なことであり、本当の教養だ。具体的には、景気回復、つまり人々が生産をこれまでより増やし、労働者を雇用し、またその増えた生産物を消費者が購入するまで、政府が通貨を増発から、どのように波及するのか?について考えるという事である。

 これに対して、経済学者は通貨が増えれば物価が上がると言っているではないか?と思う人もいるかもしれない。私の理解では、フリードマンに代表される貨幣数量説は、理論的な研究も進んだとは言え、経験則の域を完全には脱していない。更に重要なことは、通貨増発で物価が上昇するとしても、その波及過程、つまり物価上昇と景気はどのように関係していくのか?と、残される沢山の検討課題への、しんどい追究を止めないことである。以上のような飛躍した論理の主張者達は、通貨増発による物価上昇自体より、上昇以前に起こるあろう(かもしれない?)、人々の物価上昇期待を重視した。インフレ期待が起きれば、実質金利、実質賃金が下がり、生産者など人々の行動が変わるというのである。確かにそうだ。しかし、通貨増発から人々の間にインフレ期待が生じるかどうかは、(少なくとも経済理論的に考えれば)通貨増発から景気回復のメカニズムが、インフレ期待の変化に依らない経路がなくてはならない。従って、依然この点について飛躍があり、根拠なくインフレ期待が起きて景気回復するというのは、結論ありきの議論のようなものなのだ。

 要するに彼らが言っていることは、インフレ期待が起これば(起こる筈だから)景気が良くなるという飛躍した主張に過ぎなかった。しかし、それはウケた。ウケた理由は一般の人には「分かり易い」かつ、信じ込んでしまう説得力が、それなりにはあったからだろう。私は「流行った」と言ったが、流行りとは怖いもので、流行ってしまうと否定するのが難しくなる。論理を飛躍させずに物事を理解しようとするのは、しんどいことであり、人は案外、他人の判断に依存するところがあるようだ。自分で分析して結論に至る手間を、他人の判断に依存することによって節約しているのだろう。極端な場合では、信号待ちで隣の人が大通りを横断し始めたのに気づいたら、信号を確認せず自分も横断してしまうようなことだ。そうであれば、「流行る」ような意見を発信する人の学歴や経歴、キャリアは重要な要因になり得る(卑屈なことを言うと、大した肩書きのない場末の経済学者の発する意見は、むしろマイナスに作用してはいないだろうか?)。

 私が啓蒙活動に向かうきっかけとなる出来事は、東日本大震災での原発事故である。その時の全員ではないとしても、原発の専門家の態度は、時間が経つにつれて真実が分かってくればくるほど腹立たしいものとなっていった。彼らは私の反面教師である。もう一つの出来事は、現在のコロナ感染である。コロナ感染が日本でも発生してから当然、感染症の学術的専門家、現場での実務専門家の方々がメディアに露出するようになった。専門家の方々の態度からは、使命感、倫理観が総じて垣間見られるものだったと、私には感じられた。彼らは私の模範である。また、そのような専門家であっても、批判が向けられるの常である。一方、専門家でない人から専門家へ向けられる批判には、妥当でないものもむしろ多いと思うが、またそれも常であろう。しかし、いわゆる批評家や感染症や医療以外の専門家あるいはそのように見える人達が、専門家の意見に対して、例えば無責任にコロナはただの風邪、検査は意味がないなどと批判を言う場合、それが「ウケ」て流行ってしまう可能性があるように思う。(「流行り」自体とは怖いものであるが、感染症のような生活を一変させてしまうようなことについては、いわゆる確証バイアスもあるだろう。)もちろん私は、専門家に対して非専門が批判をしてはいけないとは全く思わない。批判を受けることも専門家の仕事のうちだろう。(私は自分の考えに対して、一般の人から批判を受けることが殆どないが、それは喜ぶべきではないのだろうが。)

 金融政策では、「期待に働きかける」と標榜された異次元緩和は、学術的には支持されていないにも拘わらず(流行りの意見に押されてか?)採用された。更にその直前には、政府は「デフレ脱却」のスローガンの下で、当時まだ白川総裁だった日銀と物価上昇目標のアコードを締結している。その後、結局目標は未達のままだ。日銀がどれだけ国債を買おうと、現実の物価が上がらないのに、万が一当初インフレ期待が起こったとしても、期待が維持される程、人々はのんびりしている筈がない。しかし、物価目標の成果を検討する経済財政諮問会議も、日銀に何のお咎めもない。上手くいかなかった場合の事を誰も考えていなかったとしか思えない。ただし、私は物価が(少なくとも金融政策のお陰で)殆ど上がらなかったので、異次元緩和の効果はゼロであったと言うつもりはない。金融政策の緩和度は、金利体系をどこまで引き下げたかで測るべきと考えるので、長期国債の大量買いで長期金利が低下したことで緩和効果を生んだと考えている。しかし、既に異次元緩和の前から長期金利は1%を切っており、それが3年くらいかけてゼロないし若干マイナスになっても、景気を十分に回復させるには不十分だった。コロナ禍となってしまった現在は仕方がないが、それよりも前から物価目標も未達が放置されている中、金融政策は現状維持が続くが、メディアには(政府日銀の説明のまま)大規模金融緩和継続と報道される。短期の政策金利は90年代の後半からずっとゼロ近辺のままなのだが、その間低成長が続き、金融政策に対する期待は失われてしまった。そうしているうち、金融政策の唯一残されたイノベーションであるマイナス金利深掘りもタブーのようになってしまったようだ。総括できないなら、根拠のない政策はやるべきではない。そこに来て今度は財政政策への期待である。財政政策に依存するのは無理筋なのだが、流行りの議論に惑わされ、金融政策の二の舞になるようなことがないよう、今回は願う。

 おかしな経済政策が採用されたとしたら、その責任は政治家にあるのは仕方がないことだが、何もしなければ経済学者こそが批判されるべきかもしれない。Udemyで講座を開いたことは、そうならないための第一歩だ。しかし、繰り返し聞かされる耳あたりの良い単純な「理屈」の方が、私の1時間強の動画を見るより遙かに楽に「納得感」を得ることができるだろう。しかも悪いことに、私の講座は議論のスタートラインに立つためのもの過ぎない。毎度のような無力感を味わうことになるのだろうけれど、それでも一人でも多くに耳を傾けてもらいたいと心から思う。