新型コロナ肺炎に見る感染症問題の理不尽さ

 感染症についてブログに書くのは、正直専門的な知識がないので少々気が引けるが、経済学の立場から書くべきこともあるかと思う。経済学の視点や用語などで問題点を挙げるなら、1)医療の供給サイドの問題と、2)感染拡大防止の個人の行動に分けてみたい。医療の供給サイドの問題には、感染症に対する医療資源(供給能力)は短期的に増えないことと、医療を価格メカニズムからある程度除外していることの2点がある。前者は医療の専門能力から明らかであり、後者は価格メカニズムに依存し過ぎると金持ちしか助からないかもしれないなど人権その他の問題からそうしているのである。これらの2点については、需給の調整は価格変化以外の手段で行われるのであるが、一般にその代表的な需給調整には早い者勝ちや、列を作ることで金額の代わりに時間をより多く投入できる順で解決されたりする。これは感染症問題にも多少なりとも当てはまるように思われる。
 感染拡大防止の個人行動についての問題には、外部性、不確実性、非対称性などがあり、これら3つは絡み合っている。この新型コロナ肺炎で個人が最も重視するのは、命にかかわるような重症化することだろう。この重症化リスクを極力排除するには、そもそも感染しないようにすべきなのは明らかだが、感染する危険を最大限排除するのは難しい。これから、いつ終わるとも分からぬまま家に閉じ籠って生活を続けるのは無理だろう。つまり、個々人がどのくらいの感染リスク(不確実性)を受け入れるか意思決定する必要があり、このような不確実性の問題には、確率的な判断を迫られるが、感染する確率と重症化する確率の2つの確率を(別々に)考慮する必要がある。そしてその判断には重症化し易さの個人差(の非対称性)が強く影響してくると考えられる。新型コロナ肺炎の場合、これまでに肺はもちろん何らかの疾患がある人や高齢者は重症化し易いと言われているが、それには信憑性がある。裏を返せば、健康な若者は感染しても重症化し難いというのは、程度の問題ではあるが間違ってはいないのだろう。健康な若者で感染して重症化する人はいるにはいるが、他の条件の人よりその確率は低いだろうということだ。海外などの例から感染者の重症化率は2割とも言われている(現在の世界の状況では検査によって感染が分かってから更に死に至るのは5%弱のようだが、検査を受けずに治る人がいればもっとこの確率は低い反面、データに乗らない死亡もないとは限らない)。しかし、その確率は平均的なものであって非対称であれば、実際に健康な若者は死ぬ確率が低い限り娯楽を諦める必要はなないと考えるかもしれない。それは株価暴落のリスクはあるけれど、その確率が極めて小さい限り株式投資するのと似た合理的考えである。また、株価暴落を予想する確率は個々人で差があり、それをあまり大きいと見込まない人ほどその資産に占める株式割合が大きくなるだろう。
 しかし、社会全体の感染率の変化は個人の行動に影響を与える一方、個々人の行動が社会全体の感染率を形成する。市中に出て人との接触が増えれば増えるほど自らの感染率は高まるが、同時に自分が感染することは、他人に感染させてしまう確率も高めることになり、そこには外部性の問題が存在するのである。外部性あるいは外部効果とは、ある行動が市場における価格の変動以外で他人の利害に影響してしまうことである。出歩くことで市中により多くのウィルスが拡散し、別の人の感染確率が高まることで、被害を与えたり他人の行動を制約したりする。これが社会に少なからぬ軋轢を生むかもしれない。自らの重症化リスクを高く評価する人は、他人にもなるべく出歩かないで感染し他にうつすことを謹んで欲しいだろう。しかし、重症化するリスクの少ない人は、他人のために自分の行動を「過度」には制限したくないだろう。高齢者等のために若者に自粛を要請する場合に、若者は何故他人のために自己犠牲を強いられるのか、高齢者は若者の頃出歩く自由を謳歌しただろう、と思うかもしれない。このような外部性に対する対処は、外部不経済をもたらす人に罰則か報酬を社会的に設定して行動を抑制することであり、どちらも同等な効果が得られる。政治的なことを言えば、いわゆるシルバー民主主義に陥れば、高齢者に感染させないという対策が打ち出され易いかもしれないが、若者に一方的に自己犠牲を強いるの「理不尽」なことではないかと思う。罰則(外出したら逮捕など)で抑制する前に、自粛に対する報酬を考えるべきだろう。少なくとも若者の言い分にも聞く耳を持ってあげたいものだ。
 以上の非対称性などの問題は、医療資源が限られていることにも関係してくる。医療資源が限られていることで起こるのが医療崩壊だが、例えば新型コロナ肺炎の感染拡大の最初のうちなら病床(ベッド)も人工呼吸器に余裕があるので、仮に重症化しても死に至る確率は下がっている。しかし、だからと言って医療のキャパシティーに余裕があるうちに出歩いた人達が感染しても助かり易いが、そういう人達が多ければ感染が拡大し感染率が上がって医療がひっ迫してから感染した人が助からなくなる確率は上昇するだろう。医療資源は早い者勝ちの側面があり、自粛せずに最初に感染した人ほど助かって、ある程度自粛していたのに感染が蔓延し医療崩壊してから感染して死んでしまう人がいたら、これほど「理不尽」なことはない。集団免疫という考えがあるようだが、それに基づいてどんどん感染しろと言って、医療崩壊してしまったら最悪だ。医療崩壊は新型コロナ肺炎だけでなく他の全ての医療患者に大きな影響がある。自分が重症化するリスクが小さいと思って出歩きたい人の行動を抑制する良い報酬システムが出来なかったり、医療崩壊のリスクが顕在化したりする場合には、強権的に人々の行動を抑制することにも、従って合理性はある。しかし、それも不必要な社会的軋轢を生む可能性もあり、できれば避けたいところだ。
 医療の供給制約に対し、ある程度価格メカニズムで解決しようとすれば、新型コロナ肺炎の治療が高額になり、治療の支払いができない人は重症化する確率が少々低くても感染しないように行動を自粛するかもしれないが、実際感染しても医療にかからない人が増えればアメリカのように、感染が蔓延して感染が拡大する外部効果が働くだろう。また、マスクなどの不足を価格メカニズムに依るなら、その価格が上昇することで生産の増加を促す。しかし、その過程では転売などによる利益機会を生む。高額の転売は人が困っていることに付け込むようで批判を受けることになったが、それで高額の転売を禁止してマスクが退蔵されてしまえば、問題は何も解決しないし、むしろ状況は悪くなるかもしれない。せいぜい取引金額の上限を設定するか、可能であれば一人の取引量を制限することだ。あるいはマスク、消毒液の大量の在庫に対しては、ある程度の高値で政府が買い取って医療機関や必要度の高い所に格安提供することができるかもしれない。
 また、このような事態では、景気より感染拡大防止が優先される。感染は人と人の接触で起こるのであれば、必需品ではなくかつ人と人との接触が伴う産業は極力停止させることが望ましい。これは需要と供給双方を抑制する必要があるので、通常のマクロ安定化としての需給ギャップや経済成長などに基づく判断の優先度は低くなる。需要者側にそういうことをしないように要請しても、供給があれば需要することは可能だ。一方、供給がなければ需要することはできない。カラオケボックスやバーに行くなと言うより、そういう営業するなと言う方が効果はあるかもしれない。もちろん、社会の感染確率を低下させるために、必需品でなくかつ人と人との接触を伴う産業の活動を抑制させれば、当然そこに従事する人達の経済的な損失は大きい。従って、そのような損失を強いるのは「理不尽」であって、外部性の考えに従い社会の感染確率を下げる行為に対する報酬が必要(休業を条件にした補償)である。批判という社会的制裁で解決しようとするのは非効率であり「理不尽」だ。
 必需品でなくかつ人と人との接触を伴う産業を停止させたいなら、その社会への貢献に対する報酬が必要であるとともに、経済が不必要に急速に悪化するなら、それにも政府は対処すべきだ。ハーバード大のマンキュー教授は、まず国民一律に給付してしまってから、後で税務によって調整すればよいと提案している。この場合、まず一律というのはコストをかけず迅速に対処できるからであると理解するべきであり、後で税務によって調整するというのは、結局は一律に給付することをむしろ否定している。例年と所得があまり変わらない人より、所得を減らす人に厚く手当てするのは、必需品でなくかつ人と人との接触を伴う産業に従事する人を救済することとそれほど矛盾はない。このように特定の産業に絞って財政措置をすることは、消費税減税のような一律的な措置より(財政コスト1円当たりの)感染拡大防止効果は大きい。特定の産業の供給を許しながら(少なくとも供給を止めることを誘導しないまま)、国民に一律的に財政支援をするなら、その特定の産業の需要をも増やすことになりかねないからだ。人々の行動を変えることで個人の感染確率が変わるだけでなく、社会全体の感染確率も変わり(外部性)、その結果重症化する確率は低下できる。そのために批判や要請に依るのは「理不尽」であるだけでなく、有効でもなく、適切な政策による誘導が必要だ。しかし、このような時に社会が最も頼りにする医療関係者の人の感染確率が最も高くなることはなんとも「理不尽」なことである。

 

  最近思いつくままに呟いた一連のツイートより