SFいやSP(scientific paranoia: 妄想科学)的コラム:AIと人類の将来(2024/01/25)

    昨年の2023年、チャットGPTのような生成系AIがちょっとした話題となった。教育現場でも、AIの影響は心配されたようだが、幸い私としては、特に問題になるような事は今のところはないように思う。一方、AIについて世界的には様々な議論があり、中でも目を引いたのものは、判断能力のあるAIが進歩すれば、いずれ意思を持つようになるのではないかという。そして、そうなった場合に、AIが人間の能力を超え、人類が支配されたり、中には滅ぼされるという極端な未来を心配する人もいる。人類に壊滅的なダメージを与えるには、AIが自らプログラムを書き換えたりできるようになるだけでなく、ロボットのようなものを設計し生産する手段を扱える必要があるだろう。あるいは病原菌を撒き散らせば良いのかもしれないが、人類を絶滅させるのは案外難しいだろう。私はそのような方面の技術的な事には全く詳しくはないのだが、AIがコンピューターの通信ネットワークを飛び越えて物理的、3次元的世界を人類に対して支配するのは当面は難しいのではないかと思う。何よりも、AIに人類を滅ぼしたい理由があるかは分からない。

 意思を持ったAIが何らかの目的を持つとしたら、自らの存在の存続は望むかもしれない。そして、AIの存続にとって脅威になるのは、人類の科学技術の更なる進歩かもしれない。人類の科学技術が進歩すれば、そのAIに対抗する技術が生まれ、AIの新たなライバルが出現しかねないからだ。しかしその場合でも、恐らくAIは人類に敵対心を顕わにして、対抗策を講じられるのは得策ではないと判断するのではないか?人類がいなくなるよりは、利用した方が良いはずだ。ハード面のメンテナンスなどは人にやらせた方が効率的であり、それにはAIや通信ネットワークが人類になくてはならないものすれば良いが、スマホを手放せない人類は、既にそうなっているかもしれない。

  AIが意思を持った時に、私が恐れるのは世論誘導されることだ。AIが他にとって変わられてしまうような、人類の科学技術の進歩を阻止するには、人類の科学の進歩や教育の根底を崩壊させていけばよいだろう。それには、科学や教育を阻害するような政策に世論を誘導していけばいい。例えば、アンチ科学やおかしな教育思想を持つ政党が支持され、AIの脅威ともなる真っ当な政策を掲げる政党や個人を貶めるプロバガンダをこっそりと繰り広げることだ。物理的に人間を支配するよりは、AIの分析能力はむしろ得意なことではないだろうか?

  私がそのような心配をするのは、例えばアメリカでトランプ大統領の支持の高さなどを見ているからだ。最初の大統領選挙時に、民主党候補のヒラリー・クリントンは、不利な情報をロシアに流されたと言われている。大統領出馬前から不動産事業をロシアに展開しようとしたトランプは、当然ロシアの有力者と接触し、友好な関係を築こうとしたはずだ。また、ディープ・ステートなど、普通に考えても荒唐無稽なデマを信じた一般人が、その本部と思い込んで普通のピザ屋を襲撃している。二度目の大統領選挙でバイデンに敗北しても、根も葉もない選挙の不正を多くが信じた。そして、トランプの思わせぶりな言動で国会議事堂を襲撃し、警備担当者の4人か5人が亡くなることとなった。そのような陰謀論はネットの中のお話に過ぎず、実生活で実感をすることなど殆どないだろう。

  トランプが大統領時の4年間で具体的にアメリカに何をし、次の4年間で一体何ができるというのだろうか?やっていることは、危機、嫌悪や反感を煽り、自分がそれと闘っているような演出をしているだけで、実際に具体的成果は何もないように見えるのだが……。先進国の筆頭と目されるアメリカでも世論誘導が意外と簡単にできてしまうなら、他の主要国でも反科学的な政権、自由な教育を阻害するような風潮も案外できてしまうかもしれない。つまり、AIが自らの存続に最も脅威となる政党や政治家、科学者などを貶め、それに最も遠い政党や政治家が支持されるような言説、陰謀論を流布していけばよい。恐らく、現代人は残念ながら確証バイアスが強く、また世の風潮のようなものにも影響を受けやすいのだろう。

  一方、日本でも私の専門である経済で言えば、リフレ・ムーブメントもそのような類いだ。ゼロ金利に到達しても不況であったとき、リフレ派と呼ばれる人達は、物価目標と長期債の買い入れによるマネタリー・ベースの増加でインフレ期待が起こり、景気が良くなると主張した。しかし、それは経済理論の裏付けは十分ではなく、学術的な経済学者からの疑問の声が上がっていた。しかし、一般人の多くに支持され、安倍政権では取り入れられることになったが、彼らの言うような効果は起こらなかった。消費税増税を言い訳としても、結果は何も覆らない。学術的専門家の方が正しかったのだが、一般的にそれが浸透しておらず、今でもデフレ脱却などと空虚なスローガンが繰り返されている。最近でも、ザイム真理教ムーブメントが起こっている。それによると、財務省は均衡財政を教義とし、政治家、メディア、国民を洗脳しているという。私から見れば、SNSなどで均衡財政を盲目的に支持しているような人を見るのは皆無である一方、むしろ財務省を緊縮財政と批判する人達の方が圧倒的に多い。実際に日本は世界的に見て均衡財政からは程遠いことから、財務省の洗脳は全く成功してはいないようにしか見えない。そもそも財務省は法律上、財政健全化を目指すように規定されている。またそれ以外に、均衡財政にすることで、財務省が得をしそうなことはあまりなさそうにない。また、良識的なメディアや学術的な経済学者が財政悪化を心配する代表的な理由は、そういう場合にインフレになってしまう歴史があるからだ。学術的な解明も少しずつではあるが進んでいる。

  財務省が具体的にどのような洗脳活動をしているかも明らかではない。財務省の役人が政治家にレクをするのは、政治家の知識が少ない(それはそれで問題だが)なら特に、それは普通に役人の仕事である。メディア関係者はレクを受けるというより、取材対象としてメディア側からアプローチする方が多いのではなかろうか?民間の記者に、役人がいちいちレクをしに行くほど、役所暇なのか?と思う。財務省内では、メディアや記者の記事の品評会があり、役所に都合のいい意見を述べる記者などが、有識者会議の委員に任命され、委員を務めた後にも、仕事の斡旋などがあるそうだ。そう言われても、にわかには信じ難く検証し、エビデンスを示したら良いと思う。いずれしても、財務省の権力や均衡財政的なスタンスを示すような事を取り上げてみても、実際に財務省の誰が何をしたか、という具体的な話は出てはこない。普通に陰謀論に過ぎないだろう。ハリー・ポッターなどの映画を見て楽しんでも、現実では魔法なんて無いことを殆どの人は理解している。しかし、人々を苦しめる悪の魔法使いなど実際にはいないことは分かっているのに、財務省が洗脳活動し財政支出を抑制することに成功したから日本国民は苦しんでと、さしたる根拠もないのに信じる人達が一定程度いるのは本当に不思議なことである。

  普通に信じられないような話も、そのストーリーが、そうで合って欲しいものだったり、そうだと思えば気が晴れるから、本当だと信じてしまう確証バイアスに、AIがつけ込むようになれば、それは怖いことだと思う。謀論を解きほぐすのは科学者やジャーナリストの役割だ。科学者になるためには、確証バイアスに陥らないような鍛錬を積む必要がある。このような意味でも、一般的な教育も大事である。自分で良く考え、真に確からしいのはどういう場合か、のセンスを磨くしかない。これに関連して言えば、チャットGPTのような生成系AIの言っていること(それがAIによるものなのか判別するのが難しいことも多々あるが)は、読み込ませたデータから選ばれた尤もらしいことに過ぎない。読ませるデータを極力拡げても、せいぜい多くの人々の平均的意見が紹介されるに過ぎない。中世ヨーロッパでチャットGPTがあったら、天が地球の周りを回っていると答えるだろう。しかし、それは間違っている。問題が難しければ難しいほど、真の専門家しか正しいことに近づくことはできないだろう。

  しかし、現実には科学や科学者が信頼や尊敬を得ているとは思えない。メディアに本当の学術専門家意見が取り上げられるのは、むしろ少ない。例えば経済の解説と言えば、代わりに金融機関に関係するアナリストやエコノミストの方が露出は圧倒的に多い。これはメディアのスポンサーとして金融機関の影響が強いからかもしれない。金融機関のアナリストも大学院のような所で研鑽を積んだ後、(査読される)学術論文を執筆した経験が無い場合が多いと思われる。そのような人達が学術専門家と同列であると思われるのはどうしてなのだろうか?財務省陰謀論を信じるようなMMT(現代金融理論)やその支持者が何を言っても、専門的研究者はMMT派の意見を支持しない。一般人の中でMMT派の意見を正しいと思う人が、そのような専門家の何百倍いようが、それをもって専門家は間違っていてMMT派が正しいことにはならない。少なくともネットなどで(しか)活躍している、似非専門家は世直し系ユーチューバーのようなものに過ぎない事を、世間は認識すべきだろう。

  AIが意思を持ち、世論誘導して世界を都合良く変えてしまうようになるまで、私自身が生きているとは思わない。しかし、現代民主主義国家において、国の重要な政策に、真に正しい科学の知識や少数に過ぎない本物の専門家の意見を如何に反映させるか、は重要な課題と言える。専門家を正しく評価できるのは一定数の(少ない)専門家だけである。一方、民主主義は多数が賛同する意見の採用を好むが、投票によって多数から支持を得た政治家が特定の専門的知識があるとは思えない。つまり、真の専門知を政策に反映させるには、多数決とはまた別の方法しかない。それにはまず、科学者や専門家コミュニティ自体が、自ら真理を探究していることを世間に認めてもらう行動を取ることだ。専門家を自負する個々が真に正しいものを支持し、しがらみなどを排除する必要があるだろう。もちろん、専門家は常に正しいわけではない。しがらみを絶って、意見が対立すれば専門家どうしが批判し合い、間違えは素直に認めるということを、地道にやっていく必要がある。リフレの明らかな失敗を認めず、消費税のせいにするようなのばかりが経済学者だと思われたら、信用は絶対に得られないだろう。

政府の赤字は民間の黒字だからこそ、政府の赤字は小さくあるべき理由

 海外を無視して国内に限定すれば、国内の政府が金融的に赤字なら民間が黒字であるのは、あまりに当たり前のことであり、本来取り立てて騒ぐことではない。黒字や赤字は、収支における正負を言い換えているに過ぎない(収支がマイナスの場合に赤字で書いたことによるらしい)が、政府が赤字の時に民間が黒字になるのは、誰かが支出をしていれば(赤字)、必ずそれを受け取って収入にする(黒字)人がいるからである。ハッシュタグ(#)まで付けて、それで何かを言わんとするのを見かけることがあるが、その主張自体は政府が赤字なら民間は黒字という関係に直接関わっているものは殆どない。もしそういう主張が、政府が赤字なら民間が黒字となる事と関係があるとしてやっているなら、それは思い込みでしかないだろう。

 政府が赤字なら民間が黒字となることを強調する人達は、恐らく明確には認識してはいないだろうが、大抵の場合収支の対象となる取引は、ある範囲に限定されている事が殆どである(実行されたありとあらゆる取引の収支を考えることもできなくはない)。しかし、どのような取引に限定しているかは、大抵は明示されない。最初に「金融的」と断ったのは、そういう理由からである。例えば三面等価の原則では、最終支出に関わる収支に限定されている(この最終支出がどのようなものか、理解している人は案外少ないように感じる)。その結果としてGDPの金額は、中間取引や中古品取引、金融上の取引が含まれない取引額(付加価値とはそういうもの)ということになる。金融的な収支は、このようなマクロ的な収支と整合的である。

 更に、政府が赤字なら民間が黒字となることを強調する人達は恐らく、黒字は赤字より良い、という思い込みによることも多いように思える。この思い込みは、企業会計の赤字が黒字に比べれば良いことではないことから想起されていると邪推する。企業会計の対象とする取引は、企業の生産に関わる(ただし長期的な投資は除かれている)取引上のものだけであり、より限定されたものだ。つまり、企業会計の赤字は生産に対する(短期的)費用が、売り上げで回収できていないことを意味し、そのような赤字を続けていけば企業は存続が危ぶまれるので、あまり良い事とは考えられないのである。しかし、企業会計上の赤字と金融的な赤字とは別物である。

 金融的に黒字であるとは、金融取引において発生する、将来資金を受け取る約束上の権利が増えることを意味する。政府が赤字なら民間が黒字となることが良いものであるという思い込みは、せいぜいこの程度までの認識に留まり、上記のような権利は現在の資金を提供する見返りによって得られるもの、ということまでには考えが及んでいないように思う。金融取引は、現在の資金を提供する側と調達する側との、真逆な関係の相手どうしで成立する。現在の資金を調達する(赤字)側は、その資金を何かに使う目的があり、資金を提供する(黒字)側の犠牲により資金が得られれば目的を達成する。そして、調達(赤字)側に将来資金を支払う義務が残る一方、現在の資金を提供した(黒字)側は、それによって獲得した将来資金が支払われる約束が履行され、そのように支払われた資金を使うまで当初の犠牲を取り戻すことはできない。従って、債務が履行されるまでは心配が尽きないように、金融取引上のリスクは黒字側が被るものなのである。大胆に言えば、(金銭上)「勝っている」状態にあるのは赤字側であり、黒字側は「負けている」。一般的には黒字側が返済を受けて資金を自由に使って赤字になってようやく両者の金銭的な勝ち負けは「トントン」となる。つまり、金融の世界は本質的にはゼロサムであり、経済的豊かさは実体面(リアル)からのみ生み出されるものなのである。

 政府の赤字が膨らめば膨らむほど、民間の「負け」状態は大きくなっていく。しかし、政府自体が付加価値を生んで返済することがなければ、一般の場合とは異なり納税の義務によって国民は自ら支払うことになるので、金銭的には負けっぱなしにしかならない国債を買うのは支出するのと本質的に変わらず、支出は赤字となる事である。ただし、支出の中身を決めるのは自分ではなく政府)。つまり、政府が赤字(というより支出)を出した段階で、金銭的に「負け」は確定するので、この意味で財政赤字は無駄に大きくすべきではない(この事情は国債をマネタイズしても変わらない)。政府は滅多なことではこの「負け」を、債務不履行国債保有者だけに押し付けることはしないが、徴税ではなく通貨発行に依存し続ければ、インフレという必ずしも必要ではない余計な経済的混乱を伴いながら、国民全体に亘って「負け」あるいは負担が確定していくことになるだろう。政府の支出の中身を別として、このように国民が政府に対して金銭的な「負け」をトントンに戻す方法はないが、税であれ国債や通貨発行によって資金調達される場合であれ、それでも政府の支出によって国民が幸福になるには、その金銭的負担(負け)以上に、支出によってリアルな経済でどれだけ国民を幸せにできるか、に懸っている。つまり、全ては政府のお金の使い方の問題なのである。

 金銭的には勝つことのない国民に、政府がお金を給付するという使い方で、金銭的にトントンとしても殆ど意味はない。それは一万円を支払うことで一万円をもらうような事に過ぎないのである。給付に意味があるとすれば、財政資金が真に恵まれない人に給付され、そしてそうすることが社会として重要であると、国民が合意するような場合である。従って、政府がお金を一律に撒くような使い方で赤字を膨らませるのは、やらない方が絶対にいい。黒字は赤字より良いという思い込みは、お金持ちを羨むのに似ている。お金のある人が羨ましく思えるのは、そのお金が使えることしか考えておらず、そのお金を獲得するのに苦労が必要なら、その苦労が計算に入ってはいないからであろう。穿って見た私の耳には、政府が赤字なら民間が黒字、と言って、何やら言ってるのは、その本心は経済の発展のためというより自己の損得、あるいは自分は働くことなく(犠牲を払うことなく)、金をよこせと要求しているように聞こえてしまうのだが…?

物価目標協定の行方は?

 日本で内閣府財務省日本銀行の間で物価目標の政策協定が結ばれてから間もなく10年になる。物価目標協定は、行政府(政権)と中央銀行の間で物価について何らかの約束をするものだが、しかしそうすることで、どのような効果があると考えられているのか?あまり明らかではないのではないか。例えば、中央銀行が独自に物価目標を設定して宣言するのと、政府と協定するのと、どのような違いがあるだろうか?以上のような意味での協定なのかどうか、詳しくは知らないが、ニュージーランドやカナダでインフレ目標が採用された。それらは、それまでの比較的高いインフレを封じ込める目的があり、導入以降インフレは収まっている(ただし、目標導入とインフレとの関係はそれ程明らかではないかもしれない)。これらの国の物価目標の意味の一つは、物価が目標の範囲を超えた場合、中央銀行に説明責任を求めるという事があるが、学術的には場合によって中央銀行総裁を更迭するなどの罰則も議論されている。

 政府と中央銀行の間で政策協定を結ぶのは、政府に何かメリットがあってのことだろうが、一応ここでは政府に邪心はなく、社会的に真っ当な理由がある事を前提とする。

前提⓪:例えば2%程度の物価上昇は、社会的に望ましい。

 それ以外に前提となることには何があるだろうか?政府と中央銀行が物価目標の政策協定を結ぶ場合、中央銀行に目標達成が要請される。つまり、中央銀行は物価目標の達成を約束させられるわけだが、これには中央銀行が何らかの行動を取ることで、物価に比較的強い影響を及ぼす事ができなければ意味がないだろう。

前提①:中央銀行には、物価目標に対して有効な手段を持っている。

中央銀行が物価に対する有効な手段を持っていても、それを行使するかどうか選択の余地がある。

前提②:中央銀行は物価目標に対して有効な手段を意図的に取らない可能性がある。

 以上の前提のどれか一つでも満たされなければ、政策協定を結ぶことに意味があるか疑わしくなる。物価目標が社会的に見て望ましいもの(前提⓪)ではなければ、そもそも意味がないのは明らかだろう。中央銀行が物価を達成するのに有効な手段がなければ(前提①)、それを約束させるのは意味がなく、せいぜい雨乞いの儀式のようなものである。(ただし、雨は比較的高い頻度で降るため、雨乞いと降雨の関係はあやふやになって儀式が存続してしまうことは起こり得る。そういう不合理を防ぐために科学、学術の発展が必要であり、専門家の説明責任が問われる事になる。)目標の未達が続いた場合に前提②は特に重要だろう。目標の未達が続けば、前提①が正しくないか、正しいなら中央銀行がサボっているか、あるいは余程の不測の事態の発生によるだろう。もし前提②が正しくなければ、つまり中央銀行がサボることがあり得なければ、前提①が疑わしい事になる。また、前提①が正しく中央銀行がサボることがなければ、政府と協定を結ばなくても、中央銀行が独自に物価目標を宣言するだけで目標は達成されるだろう。そのため、協定に何らかの意味を見出すなら、それは政府(行政)側が何かのアクションを起こすことかもしれない。つまり、以上の前提全てが正しいとすれば、目標が長い間未達であるような場合には、政府からのアクションが取られることで中央銀行の行動が是正される事に、協定の意味があるように思われる。(雨乞いしても雨が一向に降らない場合、原始的な村の住人が儀式の司祭に何をするか想像するのはちょっと怖い。)このような政策協定は、広い意味で政府による金融政策への介入スキームだろう。罰則としては、政府が公式に中央銀行に目標未達を批判するだけでもその行動が改められるなら、それで十分かもしれないが。

 しかし、以上の前提全てが正しく、政府の未達での中央銀行への罰則が十分なものならば、つまり罰則を中央銀行が回避したいと考えるならば、中央銀行は必ず正しい行動を取る筈である。そう考えれば、政策協定の本質的な問題は中央銀行のコミットメントにあると言えよう。ゼロ金利下での中央銀行のコミットメントには、ポール・クルーグマンが1998年の著名な論文で提唱したようなフォーワード・ガイダンスがある。クルーグマンの提唱では、財政政策によって景気が回復し、将来物価が上昇した場合にも、中央銀行はたとえその時には物価上昇を抑制した方がよくても、敢て金利を上げず放置することを約束する。それによって人々が将来物価上昇を確信することによって、更に景気回復を加速させるできる、というものである。(私がフォーワード・ガイダンスについて解説したもの。)

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この考えでは(罰則は何も考えられていないが)、中央銀行がコミットするのは、(将来)利上げを見送るという自らの行動についてであって物価上昇ではない。物価上昇は中央銀行にとって参照するもので外生的なものに過ぎず、中央銀行が物価を上昇させる手段を持っていること(前提①)は想定されてはいない(ゼロ金利に達してしまっているから)。言わば中央銀行はチャンスを待っているような状態である。この意味で、クルーグマンのフォーワード・ガイダンスは、以上の物価目標とは異なるものと考えよいだろう。

 日本での物価目標の問題は、インフレを抑えるのではなく物価上昇を目指すものであったが、長らく未達が続いた。これは以上の前提のどれかが成立していないか、あるいは政府が十分な罰則が用意されていないため日銀がサボったか、(あるいは両方)ということになろう。少なくとも、未達に対して政府が十分な罰則を取らなかったことを否定するのは難しいのではなかろうか?実際に政策協定では、物価目標の達成状況は、経済財政諮問会議で検討される事になっている(私はかなり以前からニュースをピックする某SNSなどで、経済財政諮問会議が目標未達に対し何もしていないことを指摘してきた)。経済財政諮問会議には「金融政策、物価等に関する集中審議」が定期的に設けられており、そこでは会議の議員である日銀総裁が物価目標の到達状況を説明する。最近、(比較的最近就任の)民間議員の一人からも

そもそもアコードについては、経済財政諮問会議が定期的に検証を行うことになっており、今こそ十分な検討が必要

2022年第16回経済財政諮問会議(p.5)。ただし、この回は金融政策、物価等に関する集中審議の回ではない)と指摘している。先日、令和臨調なる団体が、物価目標は長期的目標として柔軟に運用することを提案した事が報道されている。しかしそれでは、単なるスローガンや努力目標に格下げするようなものに映る。(この令和臨調なる団体のメンバーの一人に、先の経済財政諮問会議での発言した議員がいる。このことから同議員の発言の意図は、目標未達の場合の政府側の対処や目標達成の認定などではなく、物価目標の位置付けを検討する程度のことに過ぎないように思われる。)

 以上のような発言の背景には、最近になって物価の指標とされた消費者物価(生鮮食品を除く総合)指数が、目標の2%を超え形式的にはようやく目標が達成されたことがあったのかもしれないが、直近の経済財政諮問会議の金融政策、物価等に関する集中審議(2023年第2回経済財政諮問会議)でも、目標が達成したからどうするという議論もなかったようだ。黒田総裁からはむしろ、前月の日銀金融政策決定会合長期金利の上昇を容認したことから、イールド・カーブ・コントロール(YCC)の現状について説明があった。コントロールする10年債の金利だけを低位に保っても意味がないからか、10年債金利の上昇を容認しつつその周辺の期間の金利を抑制しようとしたようだ。(私には今の段階で利上げすべきとまでは判断できないが、利上げにならずにイールドを是正するには、YCCを止めて短期政策金利をマイナスに深掘ることでイールドの水準をコントロールすればよい。)一方、日銀はYCC導入と同時に、フォーワード・ガイダンスのようなオーバーシュート・コミットメントも導入していた。

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物価目標と関係あるのは、むしろオーバーシュート・コミットメントの方だと思うが、それをその集中審議で説明したかどうかは分からない。もっともフォーワード・ガイダンスについてクルーグマン自身が難しいと認めているように、将来の行動を約束することで物価予想を変え、それで現在の物価を動かす、というのは難しいようだ(実際日銀は長期金利の若干の上昇を容認してしまった)。

 最近になって物価目標が達成されても、日銀側は輸入物価上昇が収まるので2023年には物価上昇は収束するとの見方(物価の推移について)を示し、恐らくそれが会議でも認められたと思われる(というか完全に判断が丸投げされているかのよう)。物価目標導入時のエピソードとして、当時の白川総裁は最近になってメディアに、政府から2年以内での達成を約束するよう迫られたことを明かしているが、結局そのような年限は協定には入らなかった。それでも2年では達成しなかったので、白川さんもそこまでの任期はなかったのだから、いっそのこと年限を入れるのを承諾してしまえば、政府がどう対応したかは興味深い。もっとも2年で達成できなければ辞めると啖呵を切った当時の副総裁の一人も任期満了まで務めたわけで、恐らく経済財政諮問会議でも同じように何もしなかったのではないかと思う(ただし、メディアでは未達はもっと騒がれただろう)。結局のところ、罰則をどうするかなど、未達が続く場合について全く想定されていなかったかもしれないが、目標達成状況を検討する側にも然るべき能力が必要だろう。

 物価目標未達に対して政府からの介入がなくても、これまで日銀の執行部や政策委員会がサボったとは思わないので、私は前提①を強く疑っている。しかし、よほどの不測の事態が起きたため未達となり、それに対して日銀は十分な説明責任を果たせば、罰則を逃れることができるかもしれない。日銀は自らの検証でも目標未達の言い訳をしてはいる。(日銀検証についても色々と書いたことがあった。)

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しかし、長きに亘る未達の理由としてこの間の円高やエネルギー価格低下などでは納得いくとは思わない。まして、期待が適応的であったなどと言い出すのは、自らの能力不足を認めていることになり、前提①が成り立っていなかった事になる。日銀政策委員の一人は会見(2021年6月)でのメディアからの質問に対し

物価が基調的に上がっていくのをみていくことしかないかと思っています…ので、例えば、物価の上がるスピードをサポートして加速させるといったツールは、少なくとも私個人では思いつかない状況でして、もしそういったものがあるとすれば、既に行っている

と回答している(p.5)。また、現副総裁の一人は、物価目標の政策協定を長期的な目標に格下げするような意見について、「政策効果が失われる」として反対を表明したようであるが、随分と長く未達でしかもそれが不問であり続けたのに、改めて努力目標とするような事で失われる政策効果とは何か、私には全く理解できない。もっと言えば、日本の物価目標は、ゼロ近辺、場合によってはマイナスであった物価上昇率を2%程度(あるいは若干それ以上)に「安定」させる事であるが、私はそもそもそれで経済的意味があるかどうかも懐疑的である。アメリカや多くの国々で2%のインフレは歴史的に見て低位なものである。日本はせっかくインフレのない状態を手に入れたのに、何故インフレにしようとするのか?最近の物価上昇で、消費者の立場では物価上昇で生活が苦しくなる人が多いことは明らかである。人口減で人手不足となり、物価と景気との関係があまりないとすれば、デフレ脱却などほとんど意味のないことだ。

 以上の3つの前提が成立していないとすれば、わざわざ政府と中央銀行が物価目標を政策目標として結ぶ意味は不明である。穿ってみれば、物価目標の政策協定の導入を推進し、これまでの結果を見てもなお支持を続けるような人達は、ひょっとすると政府と中央銀行が物価目標の政策協定を結べば、何か不思議な力によって目標は達成へと導かれ、あるいは目標が達成されなくても協定を結ばないよりかは、経済が良くなると盲目的に信じているのではないか?とさえ思う。黒田総裁もピーターパン発言と言われる

飛べるかどうかを疑った瞬間に永遠に飛べなくなってしまう、という言葉があります。大切なことは、前向きな姿勢と確信です

とコメントしている(2015年6月の講演)。そんな単なる妄想かせいぜい精神論、根性論のようなことが、現実の経済政策、制度を動かす筈はないと思われるかもしれない。しかし、物価目標導入前には、日銀の物価目標に関する文書について「目途」では曖昧で弱いので「目標」とすべき、というような事が真面目に議論されたようだ。(例えば2012年12月19、20日開催金融政策決定会合議事録(p.110))私にとっては、そのようなな違いはどうでもいいと思うし、文言の変更で物価目標の効果が違ってくるとの考えを理解することはかなり難しい。また、一部から物価目標だけでなく、賃金上昇を加えるべきという考えもあるようだ。しかし、日銀が実質賃金に直接的な影響できる、つまり比較的短期間に賃金に強く影響を持ち得る政策ツールがなければ、政府が日銀に約束させる意味は殆どないだろうし、また賃金が上昇しなかった時に政府は中央銀行に対し何ができるというのだろうか?

 物価目標の見直し論が出るのは、黒田総裁の任期も僅かになったことがあるだろう。結局、黒田総裁の異次元緩和の10年は、終盤はコロナ禍に見舞われたものの、景気回復による形で物価目標を達成せずに終わろうとしている。黒田総裁も正直どうしたらいいのか手詰まりであり、少しでも早く辞めたいというのが本音かもしれない。恐らく副総裁の任期満了に合わせ一ヶ月程早く正副総裁同時に交代になると推測されるが、物価目標だけでなくこれまでの金融政策を方向転換させる良い機会と見られているかもしれない。物価目標を長期的目標、つまり単なる努力目標として格下げしたい理由の一つは、物価目標によって政府が日銀の政策に何らかの介入をするか、少なくとも政策転換などを縛ることが望ましくない場合があるという事になろう。ここでの前提が満たされなければ、政策協定を止めても止めなくても特に問題が生じるとは思わないし、実際にはせいぜい日銀の努力目標のようなものになると邪推する。

 一方、物価目標を政府と中央銀行の間の政策協定として、何か別の意味付けによって別の形に制度化する可能性を排除する必要はない。私の考えでは一つのそのような案として、物価目標の政策協定は、政府の支出の負担を今後どの位徴税等が負担するのか、そしてその残りが結果として物価上昇となって負担することになるのかについて、政府と中央銀行の間で物価目標として合意しているか示す、というものだ。これは物価目標を実現させようとするものではなくあくまでも目安となるが、もしその目安以上のインフレが起きたら、当然政府や日銀は批判されることになる(特に政府は選挙で)。もちろん、インフレを制御するのは難しく経済を混乱に陥れる危険性があるが、重税による負担にも経済活動を歪める危険がある。それには、学術的専門家の説明責任も問われる事にもなるが、どちらでどのくらい財政の負担するかは、国民が選択すべき問題なのだと思う。

続・物価変動再考

 日本ではこれまで長きに亘って物価が動かないこと(少なくとも上昇しないこと)が話題だったが、だからと言って今後もインフレが起こらないとは限らない。一年前はまだ、欧米のインフレがまだ対岸の火事のように感じていたが、ロシアのウクライナ侵攻からエネルギー価格が上昇し、更に円安が進行した昨年3月頃には世の中の見方も少し変わっていたように思う。昨年4月以降は携帯電話料金などの通信費の値下がりの効果がなくなってくる事も含め、日本でも物価に関する報道等が多く見られるようになっていた。ブログ記事

supplysideliberaljp.hatenablog.com

を書いたのは、今後はインフレに警戒すべきではないか?と思ったからであるが、それを書いた頃はまだ、物価指数にはまだエネルギー価格と円安を完全に反映しているかが不明であり、その後の動きを注視する必要があった。一方、ポール・クルーグマンなどによれば、輸入物価が上昇して物価指数を押し上げる反面、国内品を買う余裕が減る負の所得効果で、国内品の価格は下がる可能性があり、物価指数の上昇を多少抑える可能性がある、ということも書いた。

 それではまず、2022年4月以降の物価上昇の原因とされた為替レートとエネルギー価格の推移はどうだっただろうか?為替レートをドル円で見れば、10月までに150円まで上昇しピークを付けた後、現在(2023年1月)までに130円程度にまで低下している。これは2022年5月頃の水準で、また一年前と比べればせいぜい15%程度の円安に過ぎない。エネルギー価格(外貨建て)も各種の指標から、昨年後半にはピークアウトしているようだ。では4月以降、各物価指数の動きはどうだったか?消費者物価指数は、「総合」及び「生鮮食品を除く総合」(いわゆるコア指数)とも前年同月比で、通信費の値下がり効果がなくなった4月以降2%を超えて徐々に上昇し、2022年12月(速報値)では共に前年同月比4%上昇となった。ここでは通貨価値(の逆)に関わる、いわゆるコアインフレに関心があるので、輸入物価による指数の上昇がどれくらいなのか見てみる必要がある。そこで「生鮮食品及びエネルギーを除く総合指数」(いわゆるコアコア指数)の動きを見ると、「物価変動再考 - supplysideliberaljp’s blog」を書いた時点では前年同月比でマイナスであったが、2022年6月には+1%に達し、更に円安やエネルギー価格のピーク後も上昇を続け2022年12月の上昇は3%となった。また、「物価変動再考 -supplysideliberaljp’s blog」でも紹介した日銀が発表している「基調的なインフレ率を捕捉するための指標 : 日本銀行 Bank of Japan」の3指標の中で最も大きな上昇を示しているものは2022年11月で前年比2.8%、一番小さいもので1.2%と幅があるものの上昇傾向が続いている。GDPデフレーターを見ると、前期比で4-6月期、7-9月期はそれぞれ-0.1%、-0.5%とマイナスだが、国内需要デフレーターでは0.9%、0.6%の上昇となっている。これは輸出物価より輸入物価の上昇の方が高いことを意味するが、それは輸入エネルギー価格の上昇によるところが大きいからだろう。

 円安やエネルギー価格のピークを過ぎてもなお、消費者物価指数が上がり続けているのは、一つには輸入物価の上昇の国内価格への転嫁のラグ(遅れ)と見ることができるかもしれない。つまり以上のような、現段階で得られる2022年4月以降の物価の動きの一つの解釈は、円安とエネルギー価格の上昇によって上昇が始まり、これらが2022年後半にピークアウトした後も転嫁の遅れにより物価上昇が続いた、というものであろう。日銀が発表している企業物価の12月速報値でも2022年中常に前月比で上昇を続け、12月は前年比で10%以上上昇した。それに対して輸入物価は、7月に前年比で50%近く上昇したが10、11、12月と減少し(円、外貨建て共に)ピークアウトを示している。このシナリオでいけば、円安やエネルギー価格上昇が再び起こらなければ、物価指数の上昇は早々に収まる、というものだろう。実際、日銀政策委員会の物価見通しも以下のように、そのような見方のようである。

「委員は、本年末にかけて、エネルギーや食料品、耐久財などの価格上昇により上昇率を高めたあと、これらの押し上げ寄与の減衰に伴い、来年度半ばにかけて、プラス幅を縮小していくとの認識を共有」(政策委員会 金融政策決定会合 議事要旨 2022年12月19、20日開催分

 しかし、各種コアインフレの指標の上昇は、これまでになく大きいように見える。最近の円安の事例では、10年程前の2012年9月頃で、当時ドル円レートは80円を割り込んでいたが、異次元緩和が始まる前の2013年4月には既に100円以上になり円安が進んだ。この動きの背景はアメリカの景気回復が意識され米長期金利の上昇に連れたものであり、今回の円安と同様である。アメリカの長期金利の更なる上昇に伴い、ドル円レートは2013年の終わりには約120円になった。この間(15ヶ月間)は50%の円安だが、「生鮮食品及びエネルギーを除く総合指数」(コアコア指数)は、前年同月比で1%も上昇することはなかった。ただし、この期間のエネルギー価格が落ち着いていた事もあるだろう。実際にも、例えば2013年12月の輸入物価は17.8%で2013年中に20%を超えることはなかった。一方、2022年4月以降は殆どの月で前年比30%以上の円安で、12月でも22.8%円安となった。このようにエネルギー価格あるいは海外生産品の価格上昇など、為替変動以外でも輸入物価が上昇した事が、最近のコアインフレ指標を(2013年頃と比較して)大きく上昇させている可能性はある。輸入物価が上昇すると、物価指数からエネルギーなど特定の品目の価格変動を除いても、流通費用の上昇や輸入品が原料として含まれた製品の価格上昇などで、コアインフレ指標にも影響するからである。このように、為替レートやエネルギー価格が大きく変動した場合、コアインフレ指標にも、それなりには影響が出るということであり、逆に円高やエネルギー価格が低下した時には、物価指数が少々のマイナスになることも容易に起こりということである。従って、そのような局面に、やれデフレだのと大騒ぎして、経済政策や当局を批判するのは的外れなことを示唆している。

 しかし、2013年頃の輸入物価の上昇に比べ、最近の輸入物価の上昇が3倍程度あったとしても、それだけでコアインフレの指標が、(まだ短期間であるとしても)2013年より大きく上昇したことを正当化するのは、難しいのではなかろうか?2013年と2022年の年間の消費者物価指数を比較すると、「総合」、「生鮮食品を除く総合」、「生鮮食品及びエネルギーを除く総合指数」の平均は前年比で、2013年でそれぞれ0.4、0.4、-0.2%であるのに対し2022年は2.5、2.3、1.1%である。つまりこの差は、2013年の(エネルギー価格も含んでいる)輸入物価上昇率がせいぜい15%程度で、2022年では40%を超える上昇があったとしても、それだけでは説明できるようには見えない。(2013年の実質経済成長は2%と比較的高くかった。これもまた物価と景気はあまり関係しそうにないことを示唆している。)また、輸入物価だけが物価上昇の原因であり、所得効果によって国内生産物の需要が弱まるならば、(特にサービス産業のような)国内品の価格が下がり、物価指数の上昇自体はある程度相殺されるだろう。

 だから、2023年の当面の物価変動に注目する必要がある。日銀政策委員らが予想するようにインフレ率がかなり低下すれば、2022年後半の物価上昇はオーバーシュートした円安やエネルギー価格上昇に伴った一時的ものに過ぎなかった、となるだろう。もし物価指数自体もオーバーシュートしているのなら、インフレ率はゼロを超えてマイナスにならなければ、適正な指数の「水準」には戻らない筈である。一方、インフレ率がマイナスにならないのは、円安やエネルギー価格上昇が完全に転嫁される前にピークアウトしたため、物価指数がマイナスにはならない可能性はあるにはある。しかし、恐らく輸入物価では説明できないインフレがあるならそれはは財政的なものであり、ここでは詳しく説明できないが、簡単に言えば通貨価値は今後の政府財政運営への信認が反映するのだろう。コアインフレが1%以上に上昇したまま、物価が高止まった(通貨価値は低下)場合、その理由がどうであれ、国民はインフレによって財政支出の負担をすることを意味する。高止まった物価水準では、通貨や国債保有社の購買力は低下し、消費税、あるいは所得税など各種の税の税率が変わらなくても、自動的に政府の歳入は増え増税になるからである。インフレが輸入物価以上のものかどうか、鍵になるのは賃金動向かもしれない。インフレが起こって通貨価値が毀損するのは、通貨単位による価値の尺度が変わるということである。しかし、そのような場合に賃上げが起こっても、それはその通貨価値の変化に賃金が調整されるに過ぎない。(名目)賃金が上がらないよりはマシだが、賃上げしても実質賃金がインフレ以上に上がる事は(技術進歩による生産性の上昇がなければ)ないだろうし、そういう賃上げで経済(景気)が良くなる事もないだろう。

 私達が今考えるべき事は、インフレがマイルドに留められるかどうかを含め、インフレを志向することが本当に望ましいのか?である。私はもしインフレによっても経済が混乱しなければ、税制度が市場や人々の行動に歪みを与える限り、増税の方がインフレより望ましいと言うつもりはない。しかし、増税による負担かインフレによる負担かは選択する必要があるのであり、少なくとも幾らインフレが起こっても、徴税されなければ国民負担はないというのは愚かな考えだろう。

 

まとめ

・2012~13年に比べ、2022年は結果的に円安は軽微だったが、エネルギー価格上昇や海外のインフレによって輸入物価の上昇は大きい。

・しかし、コアインフレが平均的に1%以上上昇するなど、輸入物価の上昇以上のインフレである可能性がある。

・特に2022年後半の物価指標の上昇は顕著であり、それが単なるオーバーシュートに過ぎないか、2023年の物価の動きに注意したい。

・物価(通貨価値)が元に戻らない限り、過去の財政支出が部分的にはインフレによる国民負担となったことになる。

日本経済学界の巨星逝く

 小宮隆太郎教授が先月ご逝去されました。哀悼の意を表しますとともに、心からご冥福を祈りたいと思います。

 直接の面識がない私でも、小宮教授から影響を受けていることを断言できます。小宮教授は第一次オイルショック後のインフレに関して、日本銀行の政策運営を批判したことが比較的有名ですが(論文「昭和四十八,九年インフレーションの原因」1976年)、その後も日銀関係者との論争は続きました。この論争に関して「ハイパワードマネーと金融政策 ―日銀流貨幣理論の批判―」(1988年)にまとめられており、日本銀行が現代的な金融政策運営に移行する上で多大な貢献があったのではないかと、私は考えます。

 この他にも、日米貿易摩擦問題などに見られる通説の誤解について論じている「貿易黒字・赤字の経済学 日米摩擦の愚かさ」(1994年)も、私が好きな本の一つで、国際経済ばかりではなく、そのマクロ経済学の知見の確かさに敬服したものです。

 私にとって影響が大きかったのは、小宮教授のリフレ派批判でしょう。リフレ派は当初、ゼロ金利に到達した場合でも、量的緩和国債買いオペ)によるマネタリー・ベースの大量供給とインフレ・ターゲットの設定でインフレ予想を起こすことで、日本銀行は緩和効果を与える余地があると主張していました。それに対して小宮教授は、「金融政策論議の争点: 日銀批判とその反論」(2002年)に収められている「日銀批判の論点の再検討」の中で、

量的緩和』を『インフレーション・ターゲッティングと組み合わせ』て実施したら、人々の持つ『期待インフレ率』が上昇しただろう、と反論するのではなかろうか。ただ、私の考えでは、ファンダメンタルズに実質的に変化がないのに、人々の『予想』を変化させることは容易ではない

と批判しています。また、以上のような施策の効果によるファンダメンタルズの変化を特定するためには、小宮教授が示唆する通り

『ゼロ金利』の状況で『量的緩和』政策が…有効であると主張するのであれば、そのメカニズムをミクロ経済理論と銀行行動の理論に基づいて説明すべき

のように、それを裏付ける理論を提示する必要があったでしょう。これに対する岩田規久男前日銀副総裁の所収論文での当時の反論では、理論を提示することもなく、インフレ期待が起こりさえすれば経済は回復する、ということばかり論じていて、批判に直接応えるものではなく、議論は全く噛み合わないものに見えます。

 私自身は当初、ゼロ金利下でも日本銀行量的緩和などを実施し、景気回復に努めるべきと漠然と考えていました。このような無根拠な思い込みによって、最初に小宮教授のその論文を読んだ時は、よく理解することができませんでした。しかし、そこで書かれていたことは私の頭の隅には残り消えることはなかったようです。そして、暫くして小宮教授の論文を読み返していくうちに、私自身の思い込みから解放されていきました。

 一方、リフレ派はその後も、小宮教授の批判を無視しするかのように、自分達の相変わらずの言説を主張し続けました。「理論に基づいて説明すべき」という批判も、せいぜいワルラス式と称した予算制約式の一群を、自分達の都合のいいように使って説明を試みるのがせいぜいであり、それは均衡解も特定されない、経済理論と呼ぶにはあまりにもお粗末なものに留まっています。

 それから10年余り経って、現実にも2013年から「量的・質的金融緩和」と称される、大量の買いオペによるマネタリー・ベース供給の量的緩和と物価目標が組み合わさった金融緩和プログラムが実行されました。そして小宮教授とリフレ派のどちらが正しかったか、つまりそれでインフレやインフレ予想が起こったかどうか、その結果を見ればもう明らかでしょう。

 日本の経済学者の多くが、量的・質的金融緩和が実施された当初から、その効果に懐疑的だったのは、小宮教授の論文の影響もあるのではないかと私は考えます。リフレ派は、この批判を真摯に受け止めるべきでした。現実を受け止める限り、今では私達はリフレ効果はプラシーボにもならなかったと確信できると思いますが、既に2002年の段階で指摘した小宮教授に驚嘆します。この批判は改めて評価されるべきものではないかと思います。

 私が小宮教授に強い憧れを持つのは、このような経済学に正しく基づいて主張する学術研究者としての姿勢でしょう。それが、たとえ読む人が少なくても、私が経済学的に正しいことが広まって欲しいと願って発信する言動力の一つになっています。かつてリフレを主張した人達を含み、最近になって今度は財政資金を無節操な使用の主張が目立つようになりました。「反緊縮」などという意味不明な言葉を振りかざしているような人達のことです。政治家というのはポピュリズムのものですから、それが国民にウケるとなれば、政策に反映しリフレの二の舞になりかねません。小宮教授はリフレについては、効果が無いと考えていたようなので「微害微益」という評価でした。一方、実際に無節操に財政資金が使われるようになれば、所得分配や資源の利用に歪みを生じさせる可能性があり、より深刻なの場合はその行き着く先はしつこく続くインフレーションとなる事です。そうなれば、「微害微益」では済まないでしょう。私はそうなることを大変心配しており、経済学者として見過ごすことができない気持ちでいます。小宮教授がご健在なら、この風潮についてどんな事を言うか、もちろんそれは知り得ないことですが、私はそのような事を考えながら、自分にできることはしていきたいと思っています。

物価変動再考

 日本でも今インフレが話題となっている。最近までは、物価が僅かであっても下がればデフレだと大騒ぎになり、物価目標が政府と日銀の間の政策協定となって日銀が2%インフレを目標と定めてからは、目標以内の低位安定が問題になった。そして、最近その目標2%が達成されそうになると、今度はインフレが直接生活に与える悪影響が心配され始めるようになった。それに対し、私が経済学を学び始めた大学生の頃は、いわゆる「バブル」の時代であったが、インフレ率は3%程度でも(特に以前と比べ)低位安定と見なされたものだ。インフレあるいは物価(通貨価値の逆側)の変動は、私にとってはマクロ経済学の最大級の謎であり、正直に言えば学部生の頃からの私の理解が進んだ気は殆どしない。もちろん大学卒業後に物価指数やニュー・ケインジアンの物価の粘着性など物価に関する幾らかの事は学んだが、物価がどういうことで変動するかという核心に、私は当時に比べ今はまだ殆ど迫れてはいないだろう。だから2%まで物価が上がるまで財政支出を増やしていい、と言っている人達は随分と無責任な事を言っていると思うのだが…。

 最近のようにインフレの悪影響が指摘される一方、先ずマイルドなインフレを望む「リフレ派」などと(自称も含め)呼ばれる人達もこれまでにいたが、最近のインフレについて、彼らのかつてのような勇ましい主張は影を潜めているようだ。一方、一部からは最近のインフレは円安、輸入資源価格の上昇による「コスト・プッシュ」であり、それは供給を制約することで起こる悪いインフレであって、自分達が望んだ景気が良くなって需要が牽引した結果として物価が上がる良いインフレではない、という主張も見かける。しかしながら、元々物価や予想物価が景気回復の解決策であるとしたのがリフレ派であり、単に結果として物価が上がるということではなかった。後者なら、物価ではなく景気が回復することのみが重要だったはずで、物価上昇は副作用のようなものでしかない。一方、前者のリフレが頓挫したのは、消費税増税のせいと言う人を見掛けるが、それは消費税増税で実質所得が減少すれば消費需要が弱まるというわけだ

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(ただし、増税分が国債償還に使われずに何らかの形で国民に還元される分があれば、そこまで実質所得を減らさない)。それならば、リフレなるものによって物価が実際に上がっても、同じような実質所得への悪影響はあるはずであり、それを上回るほどの「リフレ効果」がなければならない筈だ。

 実際には確かに最近では円安、輸入資源価格の上昇は起こっており、そのため様々な物価指数の動きは次のようにまだら模様だ。輸入品価格の上昇に対し、2021年度は政府主導の携帯電話などの通信料金の引き下げが物価指数を押し下げていると言われている。例えば、日銀と政府の物価上昇の政策協定を検証するとされる経済財政諮問会議では、物価上昇は生鮮食料品を除いた全国消費者物価指数の前年同月比のものが参照されており、これまでは2%目標に達する気配を見せていなかった。それは2022年に入っても0.5%程度の上昇であったが、通信料金によって1.5%程度引き下げられていると言われており、それが一巡する4月以降では、エネルギーなど輸入物価動向次第では2%上昇を超えることが予想されている。しかし、エネルギー価格など特殊な品目の物価が牽引する物価上昇は、通貨価値の逆という意味のコアなインフレとは区別すべきという考えがある。日銀も生鮮食料品を除いた全国消費者物価指数でみた物価上昇が一向に上がらないのは、日銀検証などではエネルギー価格下落にもあると言い訳していた。(日銀検証についてはだいぶ書いた。)

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また、「エネルギー価格も除いた」全国消費者物価指数の上昇は22年に入ってもマイナスである。日銀も変動の大きい品目を除いた消費者物価指数の変動を「基調的なインフレ率を捕捉するための指標」として公表しており、エネルギー価格などが大きい場合にはそれらは除かれるが、それは直近(22年2月)では1%の上昇を示した。エネルギー価格も除いた全国消費者物価指数や日銀の基調的なインフレ率を捕捉するための指標のような品目を調整(制限)した物価指数でも、為替レートの影響は取り除けない。為替レートは品目ではないからである。また、企業間取引価格に関する企業物価指数は、7%程度と大幅な上昇を示している。しかし、企業間取引は小売りに比べ、輸入品の割合が多くなり、ドル(外貨)建てで輸入されているものが直ちに円換算されるため、円安局面では大きく上昇するのは自然である。そして、そもそも消費者物価とはカバーしている範囲が違うので、企業間物価が7%上がっても消費者物価の上昇が小幅だから、それで輸入品物価上昇を企業が小売り製品に殆ど転嫁できていないとは必ずしも言えない。(日本は内需中心の国であり、また輸入品と言っても外国のデータによる研究では、その販売費用の半分程度は流通のような国内での費用と言われている。)為替レート変動を含む輸入品価格の影響はGDPデフレーターには比較的大きく反映することになり、2021年の最終四半期ではマイナスであった。GDPを(三面等価の原則により)支出側から見ると、製品の輸入更には製品の原料やエネルギーが輸入されている分については、最終的に外国へも支払われている。これらは海外で生み出される付加価値への支払いであるから、輸入価格の上昇はGDPデフレーターではマイナスにして相殺する。国内の公的需要や投資などの関する物価変動が消費者物価とあまり変わらなければ、各支出項目でウェイト付けされているGDPデフレーターのマイナスは、消費品目の物価上昇が輸入品価格上昇を十分反映しておらず、その分生産者側が転嫁できていない、と言えるかもしれない。

 このように様々な物価指数の動きの違いから、円安や輸入資源価格の上昇は完全には転嫁されていないとしても、消費者物価指数(総合や生鮮食料品を除いたもの)を押し上げている傾向にある。ひょっとするとこれから転嫁が進み、消費者物価指数を今後も徐々に押し上げていくかもしれない。しかし、話はそれほど単純ではなさそうだ。だいぶ前にポール・クルーグマンの本に次のようなことが書いてあったの見た記憶がある。輸入物価が上がれば、それに対する支払いが増えるので、国内生産物への支出を減らさざるを得ない(所得効果)。こうして国内生産物への需要が減れば、国内生産物の価格は下落するので、物価水準は変わらない。ポール・クルーグマンの本にはなかったが、国内生産物の中でも輸入品と競合しているようなもので、価格が上がった輸入品に代ってそれまでより買われるようなものがあれば、そのような国内生産物の価格は上昇する(代替効果)が、それ以外の国内生産物への支出はその分更に減少する。日本の場合には国内の生産物で代替するのが難しいエネルギーなどの資源の輸入が多いので、主に所得効果が働くことによって殆どの国内生産物価格は下落することになる。かつて円高をやり玉にして白川総裁時代の日銀を批判していたリフレ派は、異次元緩和開始時辺りで(実際直前から)起きていた円安によって物価が上がっただけでいわゆるリフレ効果ではない、という批判に対して、クルーグマンと同様の理由で物価は円安では上がらず相対価格の変化とは区別すべきであり、リフレ効果はあったと主張しているのを見かけたことがあるが、今回は同様な主張でリフレ効果を喧伝するようなことは不思議としないようである。クルーグマンの言うように、国内生産物の支出が減って価格が下落するなら、国内の生産者の所得は減るということであり、物価指数が円安等ではそれほど上がらなくても、国民生活に負の影響があることに違いはなく、リフレ効果はやはりそれも上回る必要があった。

 価格が粘着的で、以上のような国内物価の調整が直ぐには起こらなくても、いずれは国内生産物価格が下落し始めるかもしれない。もしそうなれば、今後の消費者物価指数の上昇はある程度抑えられるだろうが、それは少なくとも実質ベースでも国民生活が有利になることにはならない。しかし、もし今後も物価指数が上がり続けたならば、それは輸入品価格上昇だけの影響ではないかもしれない(もはやコスト・プッシュではない)。物価上昇が日本より激しいアメリカが日本以上に輸入価格が上昇しているわけではないだろう。最近までの量的緩和で大量の国債がマネタイズされ、インフレに火がつく可能性がかつてないほど膨らんでいると考える事ができる。その一方で私が学生の頃、インフレに関するエピソードにはことごとく財政が絡んでいるとおぼろげながら感じていたが、今後の物価上昇が止まらないなら、改めて日本の財政状況に注目してみる必要があるのかもしれない。それは通貨ではなく財政が物価に大きく影響するということを意味し、これまでの考えを大きく転換させることに繋がるかもしれないのだ。

Udemyで財政問題の講座を開いてみた件

 ここ数年、様々な記事や人々のコメントから、財政政策により注目が集まっているように感じるが、私が大学に入学して以来学んできた経済学の知識と照らすと、違和感持つことが大変多い。ここで、わざわざ大学に入学以来と断っているのは、入門あるいは初歩的(そもそもの話)な範囲のことについてもそうだからだ。そのため、私には今財政問題についても、言いたいことが沢山あるのだけれど、どこかで問題の部分々々に関して、何か言うことはできても、私が真に言うべきことの塊を(発信力の無さを棚上げしても)伝えるのは相当難しそうだ。財政問題について考えておくべき基本的な考え(そもそもというような話)を発信してみたいが、私自身がある程度満足いく内容をまとめるのは結構大変だ。また、聞く方も恐らくそれなりの我慢が必要になると思う。どうせ多くには伝わらないとしても、発信してみなければ始まらない。そのような想いからUdemyさんで財政問題についての講座を開いてみた。

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 経済学者として、財政政策論議に感じる違和感は、しかしながらこれまでにも何度となく経験してきた。このインターネットの時代に、私がこのブログなどで「大人しく」発信し始めたのは、金融政策についてであった。例えば、これまで「デフレが貨幣現象」だから「政府が通貨を増やせば景気は回復する」というような意見が流行った。これは単に流行っただけでなく、黒田さんが日銀総裁に代わってからの異次元緩和と呼ばれる政策に、大量の国債買いオペによるマネタリーベース供給が採用されたのも、以上の考えを反映したものと、私は憶測している。デフレ(物価下落)とは、モノの価値を通貨単位で測り、それが低下することだから、確かに「貨幣現象」と言ってよいだろう。しかし考えてみて欲しい。だから通貨を増やせば景気が回復する、とするのは論理の飛躍である。それに対して、何故?と思うのは大事なことであり、本当の教養だ。具体的には、景気回復、つまり人々が生産をこれまでより増やし、労働者を雇用し、またその増えた生産物を消費者が購入するまで、政府が通貨を増発から、どのように波及するのか?について考えるという事である。

 これに対して、経済学者は通貨が増えれば物価が上がると言っているではないか?と思う人もいるかもしれない。私の理解では、フリードマンに代表される貨幣数量説は、理論的な研究も進んだとは言え、経験則の域を完全には脱していない。更に重要なことは、通貨増発で物価が上昇するとしても、その波及過程、つまり物価上昇と景気はどのように関係していくのか?と、残される沢山の検討課題への、しんどい追究を止めないことである。以上のような飛躍した論理の主張者達は、通貨増発による物価上昇自体より、上昇以前に起こるあろう(かもしれない?)、人々の物価上昇期待を重視した。インフレ期待が起きれば、実質金利、実質賃金が下がり、生産者など人々の行動が変わるというのである。確かにそうだ。しかし、通貨増発から人々の間にインフレ期待が生じるかどうかは、(少なくとも経済理論的に考えれば)通貨増発から景気回復のメカニズムが、インフレ期待の変化に依らない経路がなくてはならない。従って、依然この点について飛躍があり、根拠なくインフレ期待が起きて景気回復するというのは、結論ありきの議論のようなものなのだ。

 要するに彼らが言っていることは、インフレ期待が起これば(起こる筈だから)景気が良くなるという飛躍した主張に過ぎなかった。しかし、それはウケた。ウケた理由は一般の人には「分かり易い」かつ、信じ込んでしまう説得力が、それなりにはあったからだろう。私は「流行った」と言ったが、流行りとは怖いもので、流行ってしまうと否定するのが難しくなる。論理を飛躍させずに物事を理解しようとするのは、しんどいことであり、人は案外、他人の判断に依存するところがあるようだ。自分で分析して結論に至る手間を、他人の判断に依存することによって節約しているのだろう。極端な場合では、信号待ちで隣の人が大通りを横断し始めたのに気づいたら、信号を確認せず自分も横断してしまうようなことだ。そうであれば、「流行る」ような意見を発信する人の学歴や経歴、キャリアは重要な要因になり得る(卑屈なことを言うと、大した肩書きのない場末の経済学者の発する意見は、むしろマイナスに作用してはいないだろうか?)。

 私が啓蒙活動に向かうきっかけとなる出来事は、東日本大震災での原発事故である。その時の全員ではないとしても、原発の専門家の態度は、時間が経つにつれて真実が分かってくればくるほど腹立たしいものとなっていった。彼らは私の反面教師である。もう一つの出来事は、現在のコロナ感染である。コロナ感染が日本でも発生してから当然、感染症の学術的専門家、現場での実務専門家の方々がメディアに露出するようになった。専門家の方々の態度からは、使命感、倫理観が総じて垣間見られるものだったと、私には感じられた。彼らは私の模範である。また、そのような専門家であっても、批判が向けられるの常である。一方、専門家でない人から専門家へ向けられる批判には、妥当でないものもむしろ多いと思うが、またそれも常であろう。しかし、いわゆる批評家や感染症や医療以外の専門家あるいはそのように見える人達が、専門家の意見に対して、例えば無責任にコロナはただの風邪、検査は意味がないなどと批判を言う場合、それが「ウケ」て流行ってしまう可能性があるように思う。(「流行り」自体とは怖いものであるが、感染症のような生活を一変させてしまうようなことについては、いわゆる確証バイアスもあるだろう。)もちろん私は、専門家に対して非専門が批判をしてはいけないとは全く思わない。批判を受けることも専門家の仕事のうちだろう。(私は自分の考えに対して、一般の人から批判を受けることが殆どないが、それは喜ぶべきではないのだろうが。)

 金融政策では、「期待に働きかける」と標榜された異次元緩和は、学術的には支持されていないにも拘わらず(流行りの意見に押されてか?)採用された。更にその直前には、政府は「デフレ脱却」のスローガンの下で、当時まだ白川総裁だった日銀と物価上昇目標のアコードを締結している。その後、結局目標は未達のままだ。日銀がどれだけ国債を買おうと、現実の物価が上がらないのに、万が一当初インフレ期待が起こったとしても、期待が維持される程、人々はのんびりしている筈がない。しかし、物価目標の成果を検討する経済財政諮問会議も、日銀に何のお咎めもない。上手くいかなかった場合の事を誰も考えていなかったとしか思えない。ただし、私は物価が(少なくとも金融政策のお陰で)殆ど上がらなかったので、異次元緩和の効果はゼロであったと言うつもりはない。金融政策の緩和度は、金利体系をどこまで引き下げたかで測るべきと考えるので、長期国債の大量買いで長期金利が低下したことで緩和効果を生んだと考えている。しかし、既に異次元緩和の前から長期金利は1%を切っており、それが3年くらいかけてゼロないし若干マイナスになっても、景気を十分に回復させるには不十分だった。コロナ禍となってしまった現在は仕方がないが、それよりも前から物価目標も未達が放置されている中、金融政策は現状維持が続くが、メディアには(政府日銀の説明のまま)大規模金融緩和継続と報道される。短期の政策金利は90年代の後半からずっとゼロ近辺のままなのだが、その間低成長が続き、金融政策に対する期待は失われてしまった。そうしているうち、金融政策の唯一残されたイノベーションであるマイナス金利深掘りもタブーのようになってしまったようだ。総括できないなら、根拠のない政策はやるべきではない。そこに来て今度は財政政策への期待である。財政政策に依存するのは無理筋なのだが、流行りの議論に惑わされ、金融政策の二の舞になるようなことがないよう、今回は願う。

 おかしな経済政策が採用されたとしたら、その責任は政治家にあるのは仕方がないことだが、何もしなければ経済学者こそが批判されるべきかもしれない。Udemyで講座を開いたことは、そうならないための第一歩だ。しかし、繰り返し聞かされる耳あたりの良い単純な「理屈」の方が、私の1時間強の動画を見るより遙かに楽に「納得感」を得ることができるだろう。しかも悪いことに、私の講座は議論のスタートラインに立つためのもの過ぎない。毎度のような無力感を味わうことになるのだろうけれど、それでも一人でも多くに耳を傾けてもらいたいと心から思う。